礼拝メッセージ(2024年3月3日)
『 弱さまるごと 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 18章:15節~27章

15:ヨハネによる福音書/ 18章 15節
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
16:ヨハネによる福音書/ 18章 16節
ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
17:ヨハネによる福音書/ 18章 17節
門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18:ヨハネによる福音書/ 18章 18節
僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
19:ヨハネによる福音書/ 18章 19節
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
20:ヨハネによる福音書/ 18章 20節
イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。

21:ヨハネによる福音書/ 18章 21節
なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
22:ヨハネによる福音書/ 18章 22節
イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
23:ヨハネによる福音書/ 18章 23節
イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
24:ヨハネによる福音書/ 18章 24節
アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
25:ヨハネによる福音書/ 18章 25節
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26:ヨハネによる福音書/ 18章 26節
大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27:ヨハネによる福音書/ 18章 27節
ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

ヨハネによる福音書 18章:15節~27章(新共同訳聖書)

            

 ペトロは、連行されるイエス様の後に震えながらついて行きました。他の弟子はどこに行ったのでしょう。たった一人、ヨハネと思われる弟子がペトロと行動を共にしました。「シモン・ペトロは立って火にあたっていました。」ペトロがイエス様に「3度わたしを知らないというであろう」と言われて、「あなたのためなら、わたしは命もいりません」と大見えを切ったペトロの心は、そう答えたその時と変わってしまいました。人々は彼に言いました。「お前もあの男の弟子のひとりではないのか」ペトロは否定して言いました。「違う」ここにも、身に降る火の粉から逃れたいと願う、保身本能に侵された者が居ました。以前ペトロが捕まえに来たユダヤの役人に剣をふるったことも、恐れと正義感というサタンの誘惑がなせる業であったと言えるでしょう。
 火にあたって少し気が緩んだその時、女中に「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言われたのです。しかも、サタンはこの時とばかりに攻め立てます。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」こうしてペトロは、イエス様の仰ったとおりに鶏が鳴く前に3度イエス様を否んだのです。鶏の鳴き声は、イエス様が十字架にかかる日の夜明けを告げる鳴き声でもありました。十字架にかかって、すべての罪のさばきを一身に受けられ肉体の死を迎えられたイエス様は、三日目に復活され、ペテロの前に御姿を現されました。イエス様は、ペテロの罪と失敗を赦し、愛をもって受け入れて下さったのです。イエス様はペテロに、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と三度尋ねられ、「わたしの羊の世話をしなさい。」と言われます。 自分の力に頼って剣を抜き、イエス様に従おうとして失敗してしまったペテロでしたが、キリストの深い愛に生かされました。主イエス・キリストは、わたしたちをサタンの奴隷状態から自由にするために、解放するために来られたのです。ペテロはその恵みによって立ち直ることができ、伝道者として歩むことができたのです。
 私たちは誰もが、できれば人に隠しておきたい、見られたくない、そんな姿を隠している者です。イエス様は、そのような愚かで罪深い私たちのために十字架で命を捨てて下さいました。私たちはいつでもそこに立ち返ることができるのです。パウロもへブル人への手紙に 15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。と記しています。イエス様をキリストと信じる生活を送っていても、時々、自分の弱さ、みじめさ、ついイエス様に背を向けてしまう自分の罪を思い知らされることがあります。その重荷を共に背負ってくださるイエス様。それは、わたしたちを成長させてくださる、イエス様の愛なのです。わたしたちは弱さまるごとイエス様に向かえばよいのです。