礼拝メッセージ(2024年2月25日)
『 エゴー・エイミー 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 18章:1節~8章

1:ヨハネによる福音書/ 18章 01節
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
2:ヨハネによる福音書/ 18章 02節
イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
3:ヨハネによる福音書/ 18章 03節
それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
4:ヨハネによる福音書/ 18章 04節
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
5:ヨハネによる福音書/ 18章 05節
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
6:ヨハネによる福音書/ 18章 06節
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
7:ヨハネによる福音書/ 18章 07節
そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
8:ヨハネによる福音書/ 18章 08節
すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

ヨハネによる福音書 18章:1節~8章(新共同訳聖書)

             

 今日は、18章の4節に出てくるイエス様の言葉、「わたしである」に聞いてみようと思います。この言葉は、イエス様を捕えようと裏切ってしまったユダに連れられて来た、ファリサイ派や祭司長に向かって言われた「だれを探しているのか」というイエス様の問いから始まっています。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えた時にイエス様が「わたしである」とお答えになった言葉です。この言葉はヘブル語では、「エゴ-・エイミー」と言います。出エジプト記にモーセをエジプトの遣わそうとする神に、モーセが「わたしは今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、「彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」と尋ねた時の言葉「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたことに由来しています。


  ユダが裏切ってローマの兵士と下役たちを連れて、イエス様を逮捕しようとした時。イエス様は進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエス様は「わたしである」と言われた。イエス様が「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。このことばを聞いた時、彼らはどうなりましたか。「彼らは後ずさりし、地に倒れた」とあります。どういうことでしょうか。彼らは、その圧倒的な権威あることばに、ドミノ倒しのように後ずさりして、そこに倒れてしまったのです。


 一隊の兵士とありますから、少なくとも百人の武装したローマの兵士とユダヤの警備隊が、何の武器も持っていなかった一人の人の声によってバタバタと倒れたのです。それほどに「わたしはある」「エゴー・エイミー」イエス様の言葉に権威があったということです。8:58では「イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から,わたしはある。』」とご自身が言われるように、それはこの天地を創造された時の権威でした。神が「光よ、あれ」と命じると、光ができました。この神とは、創世記1:26に「われわれのかたちに人を造ろう」とあるように、三位一体の神です。「われわれ」父と子と聖霊の三位一体の神が、天地創造に関与しておられました。ですから、ヨハネ1章にもある様に、それはイエス様のことばでもあったのです。イエス様が「光よ、あれ」と命じると光ができました。「大空よ、水の真っただ中にあれ。」と命じると、そのようになったのです。わたしたちがどんなに「・・あれ」と言っても何も出てきませんが、神が「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と命じると、そのようになったのです。神のことば、キリストのことばには、それほどの権威があるのです。わたしたちは、その権威のもとに生かされているのです。