礼拝メッセージ(2024年4月14日)
『 神の教会 』 石井努 牧師
コリントの信徒への手紙一 1章:1節~9章(新共同訳聖書)
1:コリントの信徒への手紙一/ 01章 01節
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2:コリントの信徒への手紙一/ 01章 02節
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3:コリントの信徒への手紙一/ 01章 03節
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
4:コリントの信徒への手紙一/ 01章 04節
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
5:コリントの信徒への手紙一/ 01章 05節
あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
6:コリントの信徒への手紙一/ 01章 06節
こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
7:コリントの信徒への手紙一/ 01章 07節
その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
8:コリントの信徒への手紙一/ 01章 08節
主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
9:コリントの信徒への手紙一/ 01章 09節
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
「あなたがた」あるいは「コリントの教会」と書かれているところを「太田教会」に変えて読むときに、この言葉はわたしたちに宛てられたパウロからの手紙として読むことが出来ます。もう少し先取りして「あなたがた」を「あなた」自分に置き換えて読むとき、この手紙は、わたしたちが使徒と尊敬するパウロからの手紙になるのです。「愛の、届くだけ遠く、祈りも届く。また、祈りが、届くだけ遠く、愛も届く」と言われるように、パウロの祈りは壮大で、その祈りの中にはわたしたち大田教会も含まれています。先程も申し上げたように「わたし」「あなた」も含まれているのです。2000年の時を超えて、パウロの愛の手紙はみ言葉を経て、この教会に届いているのです。
この手紙の差出人は神の御心によって召された使徒パウロでありますが、受け取人は「コリントにある神の教会」です。差出人にも、受取人にも「神の」という言葉が記されています。この手紙を結ぶものは、「神」であります。パウロが神に召された使徒であることは言うまでもありませんが、コリントの教会は、冒頭で説明したように、教会内で売春が行われ、偶像の肉を食べたとか食べないとか、自分で晩餐を勝手にするなど、ユダヤ人とか異邦人とか、互いの信仰を攻め合うような状態でした。どこに「コリントの神の教会」の姿があるのでしょう。それでもパウロは、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」と記しているのです。「聖なる者とされた」ということは、イエス様の十字架によって罪を赦された者という意味でしょう。「聖なる者」とは、わたしたちが想像するような、決して「聖人君子」とかいう、その人の性格や道徳的な正しさではないのです。「キリスト・イエスによって」とある様に、神との関係のことを指しているのです。「聖なる者」とは、神様に属している、イエス様を救い主として信じ、身を捧げた者。という意味になるのです。
彼らは「キリストに在る」のです。そして、わたしたちも「キリストに在る」のです。そこには希望があります。この「キリストに在る」ということを「キリストの中に存在する」と受け止められる時、わたしたちの信仰の中心は、自分自身からイエス・キリストにと、内側から変えられるのです。次にパウロは感謝を伝えます。「4わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 5あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」 ここにも「キリストによって」と「キリストに在る」ことが出てきます。パウロにとって感謝もまた「キリストに在って」のことなのです。わたしたちの感謝もキリストの内から出てくるものなのです。すべての根拠は主イエス・キリストにあるのです。