礼拝メッセージ(2024年4月28日)

『 誇るなら主を誇れ 』 石井努 牧師

コリントの信徒への手紙一

1章:26節~31章(新共同訳聖書)

26:コリントの信徒への手紙一/ 01章 26節
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
27:コリントの信徒への手紙一/ 01章 27節
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
28:コリントの信徒への手紙一/ 01章 28節
また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
29:コリントの信徒への手紙一/ 01章 29節
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
30:コリントの信徒への手紙一/ 01章 30節
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
31:コリントの信徒への手紙一/ 01章 31節
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

              

 「聖なる者」とは、その人の性格や道徳的な正しさではないのです。「キリスト・イエスによって」とある様に、神との関係のことを指しているのです。「聖なる者」とは、イエス様の恵によって、この世と分けられて、神様に属する者になった。イエス様を救い主として信じ、身を捧げた者。という意味になるのですよね。パウロはコロサイの信徒への手紙(3:12~13)で、別な表現をしています。「あなたがたは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」このことはわたしたちにとってとても重要なことなので覚えておきましょう。 


  27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。パウロは、能力のあるなしを問題にしているのではなく、また、能力や才能を悪としていたわけでもありません。コリント教会の信徒の大多数が、世間に「無学な者」「無力な者」「身分の卑しい者」として、軽んじられた者であり、そういう人たちがキリストの福音に与かって、信仰へと導かれ召し出されたのだ、と言っているのです。 地位のある者の誇っているものが、決して絶対的なものではなく、その人が選ぶか選ばないに関わらずその人の評価は神の法則の中に入れられていて、自分の幸せを自分で決められないと言っているのです。それに対してキリストの民は、神が選び、そして救いを与え、召し出した群れ、永遠の命を与えられた者たちだと言っているのです。 29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。


 この事実を、だれも誇ることは出来ません。神の前で自分を誇るのは、キリストを知らない者のすることです。キリストの救いに与かっていない者のすることです。もし、わたしたちが誇ることが許されるとするなら、この恵みをわたしたち一人ひとりに下さった主イエス・キリストです。コリントの教会がそうであったように、わたしたちは、主イエスに対する信仰によって、キリストとの関係の中で生かされている。そして、キリストの中で生かされている者同士の交わりが教会であると知ることが大切です。すべて、ただ神によって成っているのです。ですから、パウロが今日の最後の言葉で記す通り、「誇る者は主を誇れ」となるのです。わたしたちは、主イエス・キリストにあって、神を誇る者でなければなりません。キリストの十字架を信じるということは、キリストの十字架の下に自分自身を葬り去るということです。イエス様が見せてくださったように、十字架の下に生き返るのです。