礼拝メッセージ(2025年12月14日)「富の再分配」ルカによる福音書1章39~56節

先週のお話の振り返り
今日の箇所は、先週の「マリアの受胎告知」の続きです。マリアのところに天使ガブリエルがやって来て、マリアが身ごもって、神の子と呼ばれる男の子を産む、と告げました。マリアは戸惑いながら、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えました。
マリアには、「自分はまだ婚約中だから、子どもを産む予定はないし、それはあってはならないこと」だという思いもあったでしょう。それに加えて、社会の底辺に追いやられ、人としての尊厳も奪われ、命の危機にも晒されてきたガリラヤの人間である自分が神の子の母となる、ということが想像できなかった、ということもあったでしょう。今の世界に置き換えるならば、例えばパレスチナのガザ地区に住む一人の少女が神の子を産むようなことだ、と言えるかもしれません。
自分の中にも、自分が置かれた状況にも、ガブリエルのお告げを信じられる要素はありません。それでもマリアがそれを信じ、受け入れられたのは、そのことを神様が実現してくださるからであり、親類のエリサベトにも神様が既に御業を起こしてくださったことを聞いたからです。神の子の誕生は、予想外の形ではありましたが、マリアやガリラヤの人々が切実に求めてきたことです。だからマリアは、「お言葉どおり、この身になりますように」と言って、主に献身し、自分の身を神様に委ねました。
神は身分の低い者を選ばれる
ガブリエルが去った後、マリアはエリサベトのところへ出かけていきました。自分と同じように聖霊が降り、思いもよらない時に身ごもった、親類の女性に会いに行ったのです。妊娠を確かめるため、というよりは、同じような境遇に置かれた先輩に会って、思いを分かち合いたかったのかもしれません。
エリサベトの家に着いたマリアは、彼女に挨拶をしました。するとその声を聞いて、エリサベトのお腹の子が躍りました。エリサベトは喜びに満たされて、声高らかに言いました。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカによる福音書1章42~45節)
ここでは立場の逆転が起こっています。エリサベトはマリアよりずっと年上ですが、エリサベトはマリアに敬意を表しています。また、二人のお腹の子は、先に産まれるエリサベトの子・ヨハネが、後から生まれるマリアの子・イエスのために道を整える者となります。さらには、マリアが神の子の母として選ばれた、ということにも、身分が低く、貧しいマリアが、神様から特別な働きに召し出され、引き上げられた、という逆転が起こっています。そのため、マリアはこのように歌いました。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」(ルカによる福音書1章46~48節)
マリアの賛歌には、旧約聖書から援用された箇所がいくつかあります。つまり、旧約聖書の時代から、神様は身分や立場の逆転を起こされてきた、ということです。神様は身分の低い者を取り上げ、弱った者に力を与え、小さな存在を偉大な者へと変えられる方なのです。
マリアの賛歌は、マリアのことだけを歌っているわけではありません。神様がマリアに目を留め、引き上げ、満たしてくださったように、他の人々にも神様は目を留め、引き上げ、満たしてくださる、ということが、この賛歌には含まれています。マリアの選びは、他の人々への神様の選びの象徴であり、先取りでもあるのです。
貧しい者の幸いと富める者の不幸
しかし、マリアの賛歌に対して抵抗感を抱く人もいます。それは次のような個所が危険な思想だと受け止められるからです。
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
(ルカによる福音書1章51~53節)
身分の低い者が高く上げられ、飢えた人が良い物で満たされる、というだけなら、それほど拒絶されることもないでしょう。しかしそれだけでなく、思い上がる者は打ち散らされ、権力ある者は引き降ろされ、富める者は追い返される、と語られていることが、ある人々には受け入れがたいようです。
マリアの賛歌には不穏な空気が漂っています。神様のご計画、神の子イエスがおこなわれることは、誰にとっても利があることではないのではないか。ガリラヤの人々にとっては良い知らせであっても、ローマの皇帝やヘロデ王、エルサレム神殿の祭司長などにとっては、悪い知らせになるのではないか、と感じられるからです。
福音書を読んでいくと、マリアの賛歌とイエス様の言葉は通じ合っているように見えます。イエス様が弟子たちに「幸いと不幸」について語られた箇所は、その一例と言えます。これはマタイによる福音書では、“山上の説教”の初めに書かれている「幸い」についての教えの並行記事です。ただし、マタイの方では「幸い」についてのみ語られていますが、ルカの方では幸いの反対の「不幸」についても語られています。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。』」(ルカによる福音書6章20~26節)
引き上げるために引き降ろす
このような言葉をどのように受け止めたらいいでしょうか。一方では身分の低い者が引き上げられ、貧しい人々に幸いが告げられる。他方では権力者が引き降ろされ、富んでいる人々に不幸が告げられる。一つ言えることは、これは権力者や富んでいる者に復讐したり、罰を与えたりすることが目的なのではない、ということです。神様の目的は、身分の低い者が引き上げられ、飢えた人々が満たされ、貧しい人々が幸いになる、ということにあるからです。
引き上げられることと引き降ろされること、幸いと不幸がセットで語られる理由はマリアたちガリラヤの人々の生活を考えてみると理解できるかもしれません。ガリラヤの農民たちが貧しくなったのは、三重の税金が原因でした。ローマの皇帝、ヘロデ王、そしてエルサレム神殿への税金が重くのしかかり、そのために人々は借金を負わされました。先祖から受け継いだ土地は貴族や大商人などに買い取られ、ガリラヤの人々は小作人や日雇い労働者となりました。
そのような状態からガリラヤの人々が引き上げられるためには、三重の搾取が軽減され、失った土地が取り戻されなければなりません。そうすることで人々は、以前のように自分たちの手で得た収穫によって生活し、家族と共に生まれ育った土地で生きていくことができるのです。しかしそうなると、ローマ皇帝やヘロデ王、エルサレム神殿が農民たちから搾取することに制限がかかり、貴族や大商人は買い取った土地を手放すことになるわけです。
つまり、身分の低い者、貧しい者を引き上げるためには、そこから富や力を奪ってきた権力者たちを引き降ろすことが伴うのです。引き降ろすことが目的ではありませんし、社会の底辺まで引きずり降ろそうというわけでもありません。神様の御心に反して奪われ、虐げられ、苦しめられている人々を引き上げるときに、必然的に起こらざるをえないことを、マリアの賛歌も、イエスの教えも語っているのです。それを危険な思想だとして抑え込むならば、神の子イエスの働きもまた拒絶することになってしまうでしょう。
奪われず、分かち合われる社会へ
これを現代の言い方で表すならば、「富の再分配」だと言えるでしょう。聖書にはそのような言葉はありませんが、格差の拡大を抑えたり、貧困から抜け出せるようにしたりといった制度は律法の中にも含まれています。
「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。」(申命記14章28~29節)
これは現代風に置き換えれば、「所得税を生活保護の財源にする」ようなものでしょう。
「七年目ごとに負債を免除しなさい。」(申命記15章1節)
「同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷と して仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。」(申命記15章12~13節)
ガリラヤの人々は借金に苦しめられ、奴隷として売られることもありましたが、律法では7年ごとに借金を帳消しにして、奴隷からも解放することが定められていました。
近代の多くの国でも、貧困が改善するときには、富裕層への制限や課税が制度として導入されることが多いようです。例えば戦後の日本では、財閥が解体され、所得税の最高税率が引き上げられ、農地が地主から小作農へと移転されました。そうすることで、貧困が減少し、社会保障も広げられ、より公平な社会へと変わっていきました。
個別の政策の良し悪しまでは判断できませんが、富の再分配を行うことは、マリアの賛歌の内容と同じ方向に向かっているのではないかと思います。誰もが満たされて生きるために必要な富は、この世界に十分すぎるほど与えられています。神様から与えられている豊かな恵みを不当に奪われず、公平に分かち合われること、そのような社会に変えられていくことが、マリアの希望となったのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『現代聖書注解 ルカによる福音書』F.B.クラドック、日本基督教団出版局、1997年
『ナザレのイエス――貧しい者の希望』L.ショットロフ、W.シュテーゲマン、日本基督教団出版局、1989年
『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』山口雅弘、日本キリスト教団出版局、2002年
※Bhuwan PurohitによるPixabayからの画像

