礼拝メッセージ(2025年12月28日)「慰めを待つ人たち」ルカによる福音書2章21~38節

慰めを待ち続けたシメオン

今日の箇所には、シメオンとアンナという二人の人物が登場します。二人とも聖書の中でここにしか登場しないので、分からないことも多いのですが、少し想像を膨らませながら読んでみたいと思います。

シメオンは、正しく、信仰があつい人でした。「正しい人」というのは、ザカリアとエリサベトの紹介でも語られていたことで、律法を誠実に守り、主の前に正しい生活を送っていた人のことです。それに加えて信仰があついと言われていますので、神様の約束を信じ、待ち続ける人であったのだろうと思います。

あるとき、シメオンは聖霊からのお告げを受けました。聖霊はシメオンに、「主が遣わすメシア(救い主)に会うまでは決して死なない」(2章26節)と告げました。「会うまでは死なない」というのは、何とも曖昧な約束です。それがいつ、どこで、どのように起こるのか、何もわかりません。それでも信仰があついシメオンは、このお告げを信じて、約束が果たされる日をずっと待ち続けました。それが何年、あるいは何十年になったのかわかりませんが、彼が高齢になって、この世を去る日のことを考えるようになるときまで、シメオンは待ち続けていたようです。

シメオンがメシアに会うことを待ち望んでいたのは、メシアに会ってみたいという興味本位からではありませんでした。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望み」続けていました(2章25節)。メシアの到来がシメオンにとっても、またイスラエルにとっても慰めとなります。だからシメオンはメシアに合うことを待ち望んでいました。

ただしここで私たちは、今この世界情勢の中で、「イスラエルの慰め」ということが誰に向けられたものかということを問わざるを得ません。それを現在のイスラエル国家のこととして安易に考えてしまうのは誤りでありますし、また当時のヘロデ王や祭司長などの権力者や富裕層もまた、シメオンが待ち望んでいた慰めの対象ではなかったでしょう。それは後にイエス様が語られたことからも想像できます。

「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」(ルカによる福音書6章24節)

この世界で多くの富を持ち、大きな権力を持ち、人も物も思いのままにできると思い上がっている人々は、メシアがもたらす慰めの対象ではありません。既に多くを持っている者たちが、さらに持っているものを増し加えるために、救い主はこの世に来られるのではないからです。

慰めを必要としているのは、貧しい人たちや飢えているたち、泣いている人たちです。生活に困難を抱えており、そこから自力では抜け出すことができない人たち。体が弱り、病や傷を抱えながら歩んでいる人たち。寂しさや悲しさ、または悔しさや歯がゆさを抱きながら、涙を流す人たち。そのような人たちにこそ、慰めは必要とされています。

シメオンが待ち望んでいた慰めも、きっとそのようなものだったことでしょう。苦しみ、痛み、悲しむ人たちが慰められ、平安が与えられ、希望が見出されること。心の中だけでなく、この世が新しくされ、神の国がもたらされること。それがシメオンが待ち望んでいた、メシアによってもたらされる慰めだったのです。

慰めを受け取る謙遜な者たち

聖書において、慰めを待っていたのはシメオンだけではありません。第二イザヤの時代の人々も慰めを必要としていました。その頃、バビロニア帝国に侵略され、神殿は崩壊し、捕虜として捉えられていました。もうなす術のない状況であり、慰めを期待することも、失われたものが回復することも想像できません。そのような人たちに向けて、イザヤは神様の言葉を伝えました。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。

エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ

苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザヤ書40章1~2節)

「慰めよ」という神様の命令は、天上の軍勢に向けて語られています。「慰めよ、慰めよ」と繰り返し語られることには、苦しみ、傷つき、悲しむ人たちを慰めようとする神様の強い意志が表されています。神様は慰めを必要とする人たちを「わたしの民」と呼び、心を向け、動き出すことを、天使や聖霊に呼び掛けました。

その慰めを受け取る人たちは、自分たちの罪に対する報いを受け、苦難を味わった人たちでした。イスラエルは神様に背き、隣人との関係を壊してきました。愛を受け取らず、愛によって生きず、愛を分かち合うことができませんでした。そのためにあるべき姿を失い、与えられていた祝福も奪われてしまいました。

悔い改めを知らない傲慢な心では、神様からの慰めを受け取ることはできません。自分の罪も、弱さも知り、悔い改める謙遜な心へと変えられたからこそ、慰めを受け取る用意ができました。慰めをもたらそうとする神様の意志は変わりませんが、それを受け取るために、長い年月をかけて謙遜な者へと変えられることがイスラエルには必要だったのです。

十字架を通してもたらされる慰め

ある時、シメオンは霊に導かれて神殿の境内に入りました。するとそのとき、マリアとヨセフが生後40日を過ぎた幼子のイエス様を連れて神殿にやって来ました。それは出産後の浄めの献げ物をして、初めての子であるイエス様を主に献げるためでした。霊に導かれたシメオンは、今こそ約束の時であり、その幼子が「主が遣わすメシア」だと悟り、感謝と喜びに満ち溢れます。そして幼子であるイエス様を腕に抱き、神様に讃美を献げました。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカによる福音書2章29~30節)

まだ生後40日の幼子であっても、シメオンにとっては確かなしるしでした。神様が約束を果たしてくださること、この世で主の御業を行い、救いをもたらしてくださること、苦しみ、傷つき、悲しむ人々が慰められることがシメオンにはわかりました。それを見てシメオンは、もう思い残すことはない、という心境になりました。

シメオンは続けて、母マリアを祝福してこのように言いました。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために と定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカによる福音書2章34~35節)

「祝福の言葉」とは思えないような内容ですが、それはイエス様が後に歩むことになる道を――何よりも十字架の出来事を――指し示す言葉でした。母であるマリアにとって、それは自分の心を剣で刺し貫かれるような事件です。けれどもそのことによって神様は救いをもたらし、慰めをもたらそうとされました。

マリアにとっては、天使から告げられ、羊飼いが話した通りに、自分の産んだ息子が神の子・救い主である、ということの確証となりました。救い主の誕生はマリアの願いに重なることでもありましたが、息子や自分が苦しみ、傷つくことになるという予告には不安が生じたかもしれません。シメオンの祝福とは、後に起こる望まない出来事の中にも神様がおられ、御心をなすために導かれるという励ましでもあったのかもしれません。

苦しみ、傷つき、悲しむ人たちに救いをもたらし、慰めを与えることは、簡単なことではありません。そこでは人の罪や過ちも絡み合い、混沌とした状況が生み出されています。神様はそのただ中に、幼子として神の子を送ってくださり、十字架を負う道へと歩ませてくださいました。すべては苦しみ、傷つき、悲しむ人たちを神様が愛しておられるからです。

慰めはすべての人へ

神殿の中には、アンナという女預言者もいました。彼女は84歳。現在の日本であれば平均寿命に近い年齢ですが、当時のパレスチナではかなりの高齢でした。若くして夫を失い、“やもめ”となったアンナは預言者として立てられ、神殿を離れずに神様に仕え続けていました。

預言者ですから、彼女は自分が受け取った神様の言葉を神殿に集まる人たちに伝えていたのでしょう。そんなアンナもマリアとヨセフ、そして幼子であるイエス様に近づいて来ました。シメオンの讃美の言葉を聞いたのか、アンナ自身に霊の導きがあったのかわかりませんが、いずれにしても彼女もイエス様が救い主であることを知り、神様を讃美しました。そして救いを待ち望んでいる人たちに、幼子であるイエス様のことを話しました。

シメオンとアンナがイエス様に出会ったのは、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれるところでしょう。神殿は中心部から、祭司の庭、男子の庭、女子の庭、異邦人の庭と区分けされており、民族や性別によって立ち入る場所が制限されていました。一番外側にある「異邦人の庭」は大きな広場となっており、そこでは信仰的な教えがなされたり、献げ物となる動物の売買が行われたりしていました。

つまり、シメオンの讃美も、アンナの預言も、ここではユダヤ人だけでなく、異邦人にも届けられた、ということです。シメオンも、神様への讃美の中で、このように言っていました。

「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカによる福音書2章31~32節)

イエス様の誕生は、すべての人たちのために神様が起こしてくださった救いの出来事です。「イスラエルの慰め」は、特定の民族だけにもたらされるものではなくて、苦しみ、傷つき、悲しむすべての人たちに向けられたものなのです。

後にパウロはこのように言っています。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)

神様からの良い知らせは、あらゆる壁を越えて届けられます。パレスチナから遠い国、シメオンとアンナからはるか後の時代の私たちにも、この良い知らせは届けられました。シメオンとアンナは、神様の救いと慰めを何年も何十年も待ち続けていました。メシアの到来を二人は喜び、慰めを必要とする人たちと分かち合いました。

今、この世界の中でも、また私たちの生涯の中でも、苦しみ、痛み、悲しみは生じます。私たちも、また多くの人たちも、救いと慰めを待ち望んでいます。その祈り願いに神様は答えてくださり、救い主・メシアであるイエス様を送ってくださった。神様はこの世に神の国をもたらし、慰めを与えようとしておられる。そのことを覚えつつ、新しい年に向かって歩んでまいりましょう。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『現代聖書注解 ルカによる福音書』F.B.クラドック、日本基督教団出版局、1997年

『現代聖書注解 イザヤ書40-66章』P.D.ハンソン、日本基督教団出版局、1998年

『旧約新約聖書大事典』旧約新約聖書大事典編集委員会、教文館、1989年

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