礼拝メッセージ(2025年12月7日)「神の子の母とされたマリア」ルカによる福音書1:26~38

似ていることと違っていること
ルカによる福音書の最初に書かれている出来事は、二人の子どもの誕生が予告される、というものです。その子どもの一人はヨハネ、もう一人はイエスと名付けられます。二人の母親は親類であり、二つの出来事も似ているところがあります。ガブリエルという天使が現れたこと。その天使を見て不安を感じたり戸惑ったりしたこと。その予告が真実であることを示すしるしが与えられたこと。そして何より、どちらの子どもも神様によって与えられたということが似ています。
一方で、二つの出来事の違いもあります。ヨハネの誕生はザカリアに告げられました。彼は祭司であり、彼とそのパートナーであるエリサベトは既に高齢になっていました。二人とも子どもが与えられることをずっと祈り求めてきました。それでも高齢になるまで願いは叶わず、もはや子どもを得ることは諦めざるを得ませんでした。そんな二人にとって、子どもが与えられることは、何よりも嬉しい喜びの出来事でした。
イエスの誕生を告げられたマリアはまだ若く、13~14歳くらいだったとも言われています。マリアにはヨハネという“いいなずけ”がいました。天使ガブリエルが現れたのは、結婚の1年前から始まる婚約期間の最中でした。このタイミングで子どもを身ごもることは、誰も望みはしません。まして身ごもる子どもが婚約者の子ではないとなれば、律法違反の罪で死刑とされかねない、危険な出来事でした。
だから、ガブリエルが告げた「男の子を産む」という出来事は、ザカリアとエリサベトにとっては喜びの出来事でも、マリアにとっては受け入れがたい危険な出来事だった、と私は考えていました。確かにそのような面もあったと思います。でも今回、マリアが生まれ育ったガリラヤという地域に目を向けたことで、それとは違った可能性も浮かんできました。もしかしたらこの出来事は、マリアにとっても願いが叶えられる出来事だったのかもしれません。
救い主を求めるガリラヤの人々
ガリラヤは、エルサレムから100キロ以上も北にある辺境の土地でした。ナザレのような小さな町ではほとんどの人が農民であり、中には大工のような他の仕事を兼業している人もいました。いくつかの住宅が中庭を囲むように建てられており、その中庭で一緒に食事をしたり、子どもたちを教育したり、情報交換をしたり、先祖の伝承を語り伝えたりしていました。
ガリラヤでは元々、自給自足の生活が行われていましたが、マリアの時代には、ローマ帝国の政治・経済システムの下に置かれました。ガリラヤの人々は、ローマへの貢ぎ物を求められました。それに加えてユダヤの王であるヘロデへの税金と、エルサレム神殿への税金も払わされており、三重の搾取によって貧困状態に貶められていました。
借金を負わされ、土地を手放し、小作人となる人も多くいました。日雇い労働者となってその日暮らしの生活に追込まれる人もいました。愛する家族を順番に奴隷として売らざるを得なくなることも珍しくありませんでした。
健康状態も悪化し、1歳を超えるまでに30%の赤子が死亡しました。10歳を超えるまでに半数の子どもが死に、30歳になるまでには75%以上の人々が死んでしまったと考えられています。貧しさからくる栄養失調や病気、障害の他、飢饉や戦争も人々の命を奪いました。何とか生きのびた人々も、寄生虫に侵されていたり、視力を失っていたりするなど、健康とは言えない人が少なくありませんでした。
ガリラヤの人々にとっては、当時はまさに暗黒の時代でした。だからこそ、ガリラヤではいくつもの抵抗運動が起こりました。自由と独立を求めて、過重な搾取からの解放を求めて、家族と共に平和に生きられる世界を求めて立ち上がり、戦った人たちがいて、それを支える人たちがいました。ガリラヤの人々は、暗黒の世界に光を照らし、人々を解放する救い主の到来を切実に祈り、願い、求めていたのです。
マリアが信じられなかったこと
マリアのところに天使ガブリエルがやって来て、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。これに対してマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」、と答えました(1章34節)。この言葉には、まだ婚約中のマリアにとって、妊娠はあり得ないことであるし、あってはならないことだ、という意味もあるでしょう。
ただ、マリアがガリラヤの人であることを合わせて考えると、他の意味も含んでいるように聞こえてきます。ガブリエルは、マリアが産む男の子がどのような人物になるか、ということも合わせて伝えていました。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男 の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカによる福音書1章30~33節)
このガブリエルの言葉で、マリアが信じられなかったことは、前半の「男の子を産む」ことだけではないでしょう。後半の、マリアが産む男の子が神の子と言われる、ということも、信じられないことだったでしょう。ガブリエルが伝えたのは、マリアが産む男の子が、人々を解放し、新しい世界を治める神の子、ガリラヤの人々が待ち望んでいた救い主だ、ということだからです。
信じられないのも無理はありません。マリアもガリラヤの人間として搾取され続けてきました。この世の底辺に追いやられ、人としての尊厳は奪われ、命の危機もあったかもしれません。そんな自分から神の子・救い主が生まれる、ということを、どうして信じられるでしょうか。まして婚約中のマリアは、身ごもったことを責められて、命を奪われる危険性さえあるのです。ガブリエルのお告げは、マリアが直面していた現実とはあまりにもギャップがありました。
自分の中にも、自分が置かれた状況にも、ガブリエルのお告げを信じられる要素を何一つ見出せなかったマリアの問いに、ガブリエルは答えました。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる 者、神の子と呼ばれる。」(ルカによる福音書1章35節)
なぜそのようなことがあり得るのか。それは、神様がなさることだから。聖霊が降り、神の力がマリアを包む。だから、マリアから生まれる子は聖なる者、神の子になる。ガブリエルは、「あなたにはやればできる!」とは言いません。自分ではどうすることもできない、乗り越えるすべを思い浮かべることさえできない。そんなことが実現するのは、神様がそこに働かれるからなのだ、と言うのです。
ガブリエルは、そのことを信じられるようなしるしもマリアに告げました。
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1章36~37節)
誰も想像できなかったこと、当人たちも既に諦めていたようなことを、神様が実現してくださったのです。エリサベトが不妊の女と呼ばれていたことは、マリアも知っていたのでしょう。そのエリサベトが、妊娠して、もう6か月になっている。マリアもすごく驚いたでしょう。確かに、神様にできないことは何一つないのだと思えたことでしょう。
マリアとガリラヤの人々の願い
ザカリアとエリサベトの物語から、私たちが願いながら叶えられなかったこと、もう諦めてしまったことでも、時を経て叶えられることがある、ということに気づかされます。しかもそれは、自分の願いを超えた形で実現することがあります。ザカリアとエリサベトの子どもヨハネが、人々を主のもとに立ち返らせ、救い主の道を整える者となったように。
一方のマリアも、自分の願いとは無関係な出来事を押しつけられたわけではなかったのかもしれません。彼女もまたガリラヤの人々と同じように、虐げられ、苦しめられている人々を解放する神の子・救い主の到来を切実に求めていたことでしょう。自分が神の子の母となるなんてことは、考えたこともなかった。それでも、ガブリエルが告げたことは、マリアの願いを実現させるものでもありました。
マリアには、ガブリエルが告げたことの意味をすべて理解できたわけではなかったでしょう。神様のご計画をすべて知ることは人間にはできません。自分の身に起こること、そこから引き起こされる危険がどうなるのかも、マリアにはまだわかりません。それでも、マリアは神様からの選びを受け止め、神様の約束を信じようと決心しました。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」(ルカによる福音書1章38節)
神の子の母とされることは、マリアにとっての献身でした。何も持たない弱く小さな存在であっても、神様の約束を信じ、神様のご計画に身を委ねることは、救いの実現のための献身となりました。その献身は、神様がマリアとガリラヤの人々の祈り求めてきたことに応えてくださったかた、踏み出すことができたものでしょう。クリスマスの出来事は、人々が祈り求め、願い続けてきたことに、神様が応えてくださった出来事なのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『現代聖書注解 ルカによる福音書』F.B.クラドック、日本基督教団出版局、1997年
『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』山口雅弘、日本キリスト教団出版局、2002年
Adina VoicuによるPixabayからの画像

