礼拝メッセージ(2025年5月18日)「キリストのもとへ」(ガラテヤの信徒への手紙4:8~20

隔ての壁が取り去られた

今日も引き続き、伝道者パウロがガラテヤ地方の教会に送った手紙を読んでいます。パウロとガラテヤの人々との関係は、初めはとても良いものでした。パウロが初めてガラテヤに来た時、パウロは体が弱くなっていましたが、ガラテヤの人々がパウロを喜んで迎え入れました。ガラテヤの人々は、パウロが語る福音を信じ受け入れ、パウロのことをまるでキリスト・イエスででもあるかのように受け入れていました。


ところが、パウロとガラテヤ教会との関係は、だんだんと変わっていきました。パウロ去った後、ユダヤ人の宣教師たちがガラテヤ地方にやって来ました。彼らはそこで教会の人々に、律法を行うことが必要だと教えていきました。律法の行いの中でも、特に割礼を受けることや、食事の決まりを守ることが、神によって義とされるためには必要なのだ、とユダヤ人宣教師は言いました。それは、ユダヤ人を異邦人から区別する律法であり、ユダヤ人の独自性を守るために重視されたものでした。

ユダヤ人であれば、神の恵みによって、神との契約に入れられます。その契約に留まるために、律法の行いが必要だと考えられていました。契約というとわかりづらいかもしれませんので、一つ例を挙げます。旧約聖書のイザヤ書46章3~4節では、このような預言がなされています。

「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

私たちのことを生まれたときから、年老いる日まで、ずっと背負ってくださるのは神です。神がそのようになさるのは、私たちが何か特別なことをしたから、というのではなく、神が私たちを選び、背負い続け、救い出すことを決めてくださったからです。私たちには、神の約束を信じ、神の御言葉を聞き、神に応えて生きることが求められます。そのような関係が神と人との契約であり、その契約の中にあるとされることが「義とされる」ということです。

ユダヤ人も、神の選び、恵み、救いを信じ、神に応えて生きようとしました。その応答が律法を行うことでした。特に神はご自身の民としてユダヤ人を選んだと信じていましたので、律法はユダヤ人のものであり、神との契約に入るためにはユダヤ人のようにならなければならないと考えていたのです。そのため、ユダヤ人宣教師たちはガラテヤの人々にも律法を行うように求めました。

しかしパウロはそのことに強く反対しました。ユダヤ人のようにならなければいけないと思わされたガラテヤの人々に、パウロはこのように呼びかけました。

「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」(ガラテヤの信徒への手紙4章13節)

パウロはユダヤ人であり、誰よりも熱心に律法を守っていました。けれどもパウロはイエス・キリストと出会い、新しく生まれ変わりました。もはや神の選び、恵み、救いはユダヤ人だけのものではなく、すべての人に向けられていることがわかったのです。だからパウロはガラテヤの人々のように――つまり異邦人のように――なりました。

ユダヤ人のようにならなければ救われないというのではない。ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで救われるのだ。それぞれの違いは残ったままで、誰もがキリスト・イエスに結ばれて神の子となることができるのだ。イエスは私たちも、すべての人も、神の選び、恵み、救いの契約へと招いてくださった。ユダヤ人と異邦人との隔ての壁を取り去ってくださったのです。

キリストのもとへ

ユダヤ人の宣教師たちは、自分たちが信じてきたことを守るために、新しくできた教会にもユダヤ教の教えを受け継がせようとしました。実際、律法そのものは悪いものではなく、私たちにも神の御心を教えてくれる大切なものです。イエスご自身が、自分は律法を廃止するために来たのではなく、完成するために来たのだと言っています。

彼らはとても熱心にユダヤ教の教えを伝えていたのでしょう。しかしそれはガラテヤの人々をキリストに向かわせるものではなく、むしろ自分たちに向かせようとするものとなっていました。パウロは厳しく忠告しています。

「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」(ガラテヤの信徒への手紙4章17節)

一方、パウロが伝えたのは古いものではなく、新しいものでした。

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙5章17節)

神の子とされ、神との契約に留まるために大切なことは、もはや律法を行うことではありません。イエス・キリストが来られたことで、状況が一変したのです。神の子とされる鍵は、律法ではなく、キリストに変わりました。ユダヤ人であることで神と結ばれるのではなく、キリストに結ばれ、キリストのもとにあることによって、私たちは神の子とされるのです。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになる まで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章23~26節)

私たちはどのようにして、キリストのもとへ行き、そこに留まることができるのでしょうか。それは善い行いをし続けることで勝ち取るものでしょうか。完全な者となることで手にすることができるのでしょうか。いいえ、そうではありません。ここでも、救いの根拠は私たち人間の側にはありません。神の一方的な選びが私たちをキリストのもとへと招いてくださいます。

私たちは誰もが過ちを犯します。自分でもがっかりするくらい簡単に、何度も罪を犯します。完全な者とは程遠いことをよくわかっていますし、自分の弱さも知っています。それでもイエスは私たちを愛してくださり、私たちのためにとりなしてくださるので、私たちは罪の赦しを得て、キリストのもとに留まることができます。

私たちが神を知っている以上に、神は私たちのことを知っていてくださいます。私たちの罪も、弱さも、全部知っていて、神から離れそうになったり、神から引き離されそうになったりする私たちを、イエスのもとへと引き戻してくださいます。だから私たちはキリストのもとで、主の言葉を聞き、主に従い、主に応えて、何度でも歩みだすことが赦されているのです。

弱さを背負うイエスと共に生きる

弱さのことでいうと、最初にも少し触れましたが、パウロも弱さをもっていました。ガラテヤ地方の教会に立ち寄り、福音を告げ知らせたのは、「体が弱くなったことがきっかけ」だった、とパウロ自身が語っています(ガラテヤの信徒への手紙4章13節)。また、コリントの信徒への手紙では、パウロを痛めつける一つのとげがあり、それを取り除いてくださるようにと何度も主に祈った、ということも書いてあります。その弱さととげが同じことかどうかははっきりしませんが、パウロも何か弱さをもっており、その弱さをもったままで福音を告げ知らせていたことはわかります。

注目したいのは、ガラテヤの教会の人々が、弱くなったパウロのことを喜んで受け入れていたことです。

「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」(ガラテヤの信徒への手紙4章13~14節)

単に受け入れた、というだけではなくて、まるで神の使いやキリスト・イエスであるかのように受け入れた、というのです。パウロが何でもできる完全な人であったり、最強の力を持ったヒーローであったりしたならわかりやすいですが、そうではありません。弱くなったパウロが、神の使いやイエスのようだったのです。

イエス・キリストは、弱さを知っている人でした。神の子でありながら、人の子として産まれ、私たちが背負うあらゆる運命をご自身で背負われた方でした。私たちに襲い掛かる恐れも、不安も、孤独も、苦しみも、誘惑も、疑いも、その全てをイエスは背負ってくださった。私たちの弱さを担い、弱さのただ中へと降ってきてくださる。それがイエス・キリストです。

パウロはガラテヤの人たちに、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度、あなたがたを産もうと苦しんでいます」と語ります。私たちも自分の中にキリストが形づくられること、それほどまでにキリストと深く結ばれることを祈りたいと思います。私たちの弱さを背負ってくださる神の子。私たちの罪を赦してご自身のもとへ招いてくださるキリスト。そのような救い主イエスと共に生きたいと願います。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

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 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考文献 『ユダヤ人も異邦人もなく パウロ研究の新潮流』山口希生、新教出版社、2023年