礼拝メッセージ(2025年5月25日)「愛によって働く信仰」ガラテヤの信徒への手紙5:2~15
割礼か、キリストか
ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロは繰り返し異邦人クリスチャンに割礼を受けさせることに反対しています。今日の箇所では批判をさらに強めて、「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と断言しています(ガラテヤの信徒への手紙5:2)。
割礼を受けるように教えていたユダヤ人宣教師たちにとっては、割礼は神の民であることの保証であり、大切に守り続けてきたことでした。彼らは新たに神の民に加わろうとする異邦人にも割礼を求めることに、何の疑問も感じなかったのでしょう。彼らは「キリストを信じるに加えて割礼も受ける」ことで、神の民になる保証を確かなものにできると考え、教えたのかもしれません。
しかしパウロの理解は違いました。
「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(ガラテヤの信徒への手紙5:4)
パウロは、「キリストに加えて割礼も」などという選択肢はないと断言するのです。問われているのは、「割礼を取るか、キリストを取るか」という二者択一の選択です。キリストが来られる以前には、神の民であることのしるしは割礼のような律法にありました。しかしキリストが来られたことによって、状況は一変したのです。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤの信徒への手紙3:26)
私たちはもはや、律法によって神と和解し、神の民とされるのではありません。イエスの十字架と復活によって私たちは神と和解し、イエスによって私たちは神の子とされるのです。だからパウロはこのように語ります。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤの信徒への手紙5:6)
割礼のような律法に従うことは、もはや問題ではありません。大切なのは、イエスに結ばれることです。イエスとつながることは、ヨハネによる福音書15章でイエスが語られたぶどうの木のたとえが思い起こされます。主イエスがぶどうの木、私たちはその枝であって、枝は木につながっているからこそ、豊かな実を結ぶと教えられました。そしてイエスはイエスの愛にとどまること、イエスの掟を守ることを教えました。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15章9~10節)
私たちはもはや割礼や律法を拠り所にはしません。イエス・キリストを信じ、その愛にとどまり、その掟を守ることこそ、私たちにとって大切なことなのです。
異邦人も、敵でさえも愛しなさいと教えたイエス
大切なのは愛です。6節では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」だと言われていました。これは他の日本語の聖書では、たいてい「愛によって働く信仰」と訳されています。私たちがキリストの愛にとどまり、キリストの愛によって働く信仰が大切です。
愛の源は神にあります。神がまず私たちを愛してくださった。その愛によって御子イエス・キリストをこの世に――私たちのところに――遣わしてくださった。ここに愛があります。その神の愛に応えるように、私たち人間の愛が――神に対する人間の愛が――生まれ、さらには神の愛に倣う隣人への愛も生まれます。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)
これは永遠の命を受け継ぐために――神の民として生きるために――大切なこととして、律法の専門家が答えたものです。神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、神の愛への応答として大切なことでした。
しかし、律法の専門家とイエスの間には決定的な違いがありました。それは、愛すべき隣人は誰なのか、愛の対象とすべきは誰なのか、ということについての認識の違いです。律法の専門家は、愛すべき隣人とは同胞のこと――同じユダヤ人だけ――だと考えていました。律法には異邦人への配慮も含まれていますが、ユダヤ人と異邦人とを分ける考えは確かに見られます。だから、最も大切な愛の対象は仲間だけに限定していいと思っていたようです。
それがガラテヤの教会に生じた問題の原因だったのかもしれません。ユダヤ人と異邦人は違う。神の民となり、愛し合うべきは仲間であるユダヤ人だけである。だから、異邦人クリスチャンも割礼を受け、ユダヤ人のようになり、律法を守る仲間となるべきだ。そのようにユダヤ人宣教師は考えたのかもしれません。
しかし、イエスの考えはそれとは異なります。先ほどのルカによる福音書10章で、律法の専門家に対してイエスは「善いサマリア人のたとえ」を語られました。その物語では、追いはぎに襲われ、半殺しにされた旅人を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、敵対していたサマリア人でした。ユダヤ人の敵であったサマリア人が、襲われたユダヤ人の隣人となり、愛によって働いたのです。
人が神を愛することの大切さは、旧約の時代も新約の時代も変わってはいません。イエスによって新しく変わったことは、愛すべき隣人とは誰か、私たちは誰を愛すべきなのか、という認識です。イエスは愛の対象を同胞(仲間)だけに限定していいとは考えていません。愛すべき隣人には異邦人も含まれます。それどころかイエスは敵をも愛することを教えました。
「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカによる福音書6:27~28)
イエスは、敵と仲間を区別して愛する対象を限定することを受け入れません。イエスはすべての人を愛することを教えました。なぜなら愛の源は神にあり、神はどのような人も愛しておられるからです。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイによる福音書5:43~45)
敵ではなく、神に愛されている人間
敵を愛しなさい、というイエスの掟は、とても難しいことだとよく言われます。自分の経験を思い出してもそう思います。だからこそ、この掟は脇においておきたくなりますが、実際に「敵」となった人と関わらざるを得ない場合には、イエスの言葉が迫ってきます。
もし私たちが暴力を振るわれていたり、持っている物を奪われたりしているなら、そのようなことをする敵を愛する、というのは本当に難しいことです。その時には、愛することだけではなく、自分や大切な人が守られることを祈り求めるのが当然だと思いますし、復讐しないということがその時の精一杯の「愛すること」であるかもしれません。
その一方で、「敵」というのは必ずしも自分より強かったり、実際に攻撃をしかけてきたりしている相手とは限らない、ということもあるのではないでしょうか。実際に、自分たちの計画を邪魔したり、利益を損ねたりするような存在も「敵」として認識されることが起こります。
私はパレスチナのガザ地区へのイスラエルの軍事侵攻に、ずっと心を痛めています。ガザ地区での死者は先月までに5万人を超えました。そのうち1万6千人以上が子どもでした。負傷者はその何倍にもなり、手足を切り落とさざるを得なかった子どもも何百人もいます。
ガザ地区は20年前からイスラエル軍に包囲され、人や物の出入りが制限されてきました。イスラエルは3月から食料を含む物資の搬入を禁止したため、ガザでは50万人が飢餓に直面しており、支援が届かなければ1万4千人の乳児が死亡する可能性があると言われています。ここ数日間でも既に29人の子どもと高齢者が飢餓に関連した要因で命を奪われました。
当たり前のことですが、ガザの子どもたちは誰もイスラエルを攻撃したことはありません。子どもに限らず、ガザの多くの人がそうでしょう。けれどもイスラエルはガザのすべての人を「敵」と見なして虐殺を続け、その存在を消し去ろうとしています。武器を持つ戦闘員だけでなく、子どもも、女性も、高齢者も、病気や障がいをもった人も、すべてが敵だと――愛の対象外だと――見なしている。
教会にとって深刻な問題は、キリスト教国であるはずのアメリカやヨーロッパ諸国がイスラエルを擁護し続けてきた、ということです。時折、批判はするものの、本気で止めようとはせず、むしろガザと連帯するデモを弾圧している。これではイエスの教えから逆戻りして、『隣人を愛し、敵を憎め』という古い掟に戻ってしまったかのようです。
詳しく話す時間はありませんが、イスラエルがパレスチナの人々に行ってきたことは、欧米諸国が世界中を植民地化し、また入植を進めてきたことと繋がっています。そしてそれは、「脱亜入欧」をスローガンとして近代化し、アジアの植民地主義国家となった日本の歴史とも繋がっています。
読み返してみると、イエスが語った「善いサマリア人のたとえ」で、サマリア人が愛を示した人は傷ついたユダヤ人でした。「敵を愛しなさい」というイエスの教えは、攻撃してくる相手をも含むものですが、確かにそれは難しい。今、ガザの人たちにイスラエル人を愛しなさいとは私も言えません。でも、イスラエル人にガザの人たちを愛するように求めることは、難しいことではないはずです。
神はこの世のすべての人を愛し、分け隔てなく恵みを与えてくださる。イエスは特定の人々だけではなく、すべての人の罪を負って十字架にかかり、すべての人のために復活された。神の愛は人を分け隔てしない。この世に生まれた誰もが神にかたどって創造され、「わたしの目にはあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛」すると神から語られる存在です。(イザヤ書43:4)
そのことを忘れ、あのユダヤ人宣教師たちのように人を分け隔てるものによって立つならば、それがだれであろうと「キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失」うでしょう。「愛によって働く信仰」を取り戻さなければなりません。イエスの掟を守り、イエスの愛にとどまることが大切です。「敵」だとか、「仲間じゃない」とされる人々、愛の対象外とされる人が、本当は神に愛されている人であって、私たちも愛すべき人である、というイエスの信仰に立ち返ることが、今の世の中に、そしてこれからの時代に宣言することが、キリスト者の大切な証しだと私は信じています。
牧師 杉山望
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