礼拝メッセージ(2025年6月15日)「心はどこに向いている?」フィリピの信徒への手紙3:2~9
比べ物にならないほど大切なこと
今日の箇所では、パウロが感情を高ぶらせながら、フィリピの信徒たちに注意を呼び掛けています。パウロは「あの犬ども」という侮辱的な言葉を使ってしまいます。そのようにパウロの感情が高ぶるほど、フィリピの教会に迫る危機は深刻なものでした。
おそらく、割礼を受けた異邦人宣教師がフィリピの教会にやって来て、割礼を受けたり、律法を守ったりすることが必要だと教えたのでしょう。異邦人でありながら、割礼を受けてユダヤ人のようになった宣教師たちは割礼を受けたことを誇り、割礼に頼っていたのかもしれません。彼らはイエス・キリストを信じるだけでなく、割礼を受けることによって救いが確かなものとなると考え、そのように教えていたのでしょう。
しかしパウロは、救いに与るためにキリスト以外の何かが必要であるとする教えを決して受け入れませんでした。割礼を受けることは不要なことであるだけでなく、むしろ教会の信徒をキリストから引き離すものであり、危険な教えであるとパウロは考えていました。
もし、割礼を受けることや律法を守ることが、より優れた信仰者のしるしとなるのであれば、異邦人宣教師よりもパウロの方がはるかに優れていました。パウロは生まれながらのユダヤ人であり、生後8日目に割礼を受けており、由緒正しい血筋に属していて、誰よりも熱心に律法を学び、律法に忠実に生きてきました。熱心であるからこそ、教会の迫害者となり、律法遵守の点では非の打ちどころもないと自慢できるほどでした。
このようなパウロの経歴は、ユダヤ人としてのパウロにとっては有利なものでした。彼は周りの人々から一目を置かれるような立場にあったわけです。ところがパウロは、今ではそれらのものも「一切を損失とみて」いて、「塵あくたと見なしています」と語ります。今となっては、ユダヤ人として歩んできた努力や実績は、何の誇りにもならないし、頼りにもしていない、というのです。
パウロは過去の自分の歩みが全く無駄なものであったと、と言いたいのではありません。神に従おうと歩んできたことは間違いありませんし、今でも律法は神から授けられた大切なものだと思っています。それでもパウロは過去の栄光とも、重ねてきた実績とも比較できないほどすばらしいものに出会ったのです
「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピの信徒への手紙3章7~8節)
パウロにとって「キリストを知る」ことがあまりにも素晴らしいので、それと比べたならば、他のどんなものも価値あるものに思えなくなってしまったのです。それまでは熱心なユダヤ人であることが誇りであり頼りであったパウロが、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」ためには、ユダヤ人としての誇りも実績も失ってかまわないと思うようになったのです。
パウロはそれほどに大切なものをフィリピの教会の人々にも失ってほしくなかったのです。「キリストを知る」ことは、他のものと取り換えたり、他のものを付け加えたりすることができるようなものではない、ということを、パウロは強く訴えました。
キリストを「知る」ということ
では、「キリストを知る」とはどのようなことなのでしょうか。パウロはクリスチャンになる前から、イエスのことを知っていたと考えられます。教会の迫害者であったパウロは、知識としてはイエスのことを知っていたはずです。イエスがナザレ出身の大工の息子で、ガリラヤで人々に神の言葉を教え、奇跡を行っていたこと、祭司長たちによって訴えられ、十字架に架けられて死んだことなど、人づてに聞いたイエスに関する知識は、迫害者パウロも持っていたでしょう。
しかしそれでは「キリストを知った」とは言えません。パウロが「キリストを知った」と言えるようになったのは、ダマスコという町に向かう途中で天からの光に照らされ、その中で自分が迫害していたイエスと出会った時からでしょう。
聖書の中では、「知る」と訳されている言葉が、「知識として何かを知る」という意味で用いられることはあまりありません。その多くは、対象との関わりの中で、何かを感じ、経験し、行動することを通して知ることを意味しています。
例えば、私たちが自分にとって身近な人を知っている、と言ったときには、履歴書に書かれるようなことを知識として思い浮かべるわけではないでしょう。むしろ、その人と一緒に過ごした日々や、一緒に経験したこと、その人のもっている雰囲気や話していた言葉などを思い浮かべるでしょう。そのようなことが、聖書における「知る」ということに近いのではないかと思います。
以前からイエスのことを知識としては知っていたけれど、ダマスコ途上でイエスと出会ったことによって、パウロはイエスのことを具体的に、また感覚的にも知ることができたのでしょう。「キリスト・イエスを知る」ということは、キリスト教の教えや特徴を学び、覚えるということではありません。一人の人間として生きたイエスは何を語り、何を行い、誰とどのように関わったのか、ということを知ることであり、イエスがどのようなお方であるのかを知ることなのでしょう。
出会ったイエスはどんな方だったか
私たちは12弟子のように、肉体をもって生きているイエスと出会うことはできません。また、パウロのような神秘的な体験をしたことがある人も多くはないでしょう。それでも、私たちはイエスを知っていると言えます。イエスがそこにいるかのように感じたり、イエスの言葉を自分に語られたこととして聞いたり、イエスのなさったことを具体的な姿で思い浮かべたりすることができるからです。
書にはイエスの物語が残されていて、様々な人がこの世を生きたイエスと出会った出来事を伝えてくれています。私たちはその物語を通して、イエスと出会い、イエスを知ることができます。それと共に、既にイエスと出会った人たちの証しも私たちがイエスのことを知るための助けとなります。
そしてそこでは神も働きかけてくださっています。それは目で見ることも耳で聞くこともできませんが、神から遣わされる聖霊が私たちに働きかけて、イエスのことを教えてくださるのです。
「わたし(イエス)は、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネによる福音書14章25~26節)
それでは、私たちはどんなイエスのことを知っているでしょうか。イエスのどんな姿を思い浮かべ、どんな言葉を思い出すことができるでしょうか。病を負わされた人々に手を触れ、癒されたイエスでしょうか。お腹を空かせた群衆とパンを分け合ったイエスでしょうか。罪人と呼ばれて蔑まれた人々の友となり、赦しを宣言したイエスでしょうか。弟子たちを選び、招いたイエスでしょうか。自分の生命を差し出して十字架に向かったイエスでしょうか。絶望した弟子たちの前に現れ、平和を告げたイエスでしょうか。
私たちはそれぞれに、イエスと出会い、イエスを知った時があったでしょう。これからもきっとイエスとの出会いがあり、イエスを新たに知ることがあるでしょう。どのようなときも私と共にいてくださったイエス。暗闇の中で道を照らしてくださったイエス。苦しみを共に担い、助け出してくださったイエス。負わされた重荷を共に担ってくださったイエス。そのようなイエスを知ることは、パウロにとって素晴らしいことでしたし、私たちにとっても素晴らしいことだったのではないでしょうか。
キリストに心を向けられるすばらしさ
一つ、覚えていたいことは、私たちがイエス・キリストを知り、キリストを通して神を知る以前から、神が私たちのことを知っていてくださる、ということです。
「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。」(詩編139編1~6節)
神は私たち一人ひとりに心を向け、私たちの生涯を見守り、私たちの想いを知り、私たちと共にいてくださる方です。神は私たちのことを、多くの人々の中の一人としてではなく、それぞれに名前を持ち、それぞれの人生を歩み、それぞれに苦悩したり、格闘したりしながら精一杯生きている一人ひとりとして知っていてくださるのです。
私たちはその神を知ろうとしています。律法ではなく、キリストを通して、神と出会い、神を知ろうとするのです。そのとき、私たちの心はキリストに向けられています。心がキリストに向けられることで、私たちはキリストの内にいる者となり、キリストと一つに結ばれます。そのとき、私たちもキリストに似た者へと新しく造り変えられていくのです。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)
それは既に完全な者になったということではありません。自分の不完全さは自分が一番よくわかっています。古い部分はたくさん残っている。でも、キリストと出会い、キリストを知り、キリストと結ばれて、私たちも変えられたこと、新しい部分が生じたことも確かなのではないでしょうか。キリストを知ることで、キリストと結ばれ、キリストに倣う者へと変えられていく。それもまた素晴らしいことです。
すべての人をご存じである神は、すべての人にご自身のことを知らせたいと思っておられます。預言者イザヤがこのように語っていました。
「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ書11章9節)
世界中でイエス・キリストが知られ、それによって神を知る知識が大地を覆っていく。誰もがキリストに倣う者へと変えられて、神の愛に生きる者になっていく。それはいつの日か訪れる終末の預言かもしれませんが、その日に向かう一歩として、私たちは共にキリストを知り、またキリストを伝えていきましょう。
牧師 杉山望
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