礼拝メッセージ(2025年6月22日)「イエスに倣う」フィリピの信徒への手紙3:10~4:1
わたしに倣う者となれと言うパウロ
今日の箇所では、パウロがフィリピの教会の人々に、「わたしに倣う者になりなさい」と呼びかけています。
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者になりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(フィリピの信徒への手紙3章17節)
少し前の2章では、新共同訳聖書の小見出しに「キリストを模範とせよ」と書かれているように、パウロもイエス・キリストに目を向け、その姿に倣うことが大事だと考えていたことがわかります。けれどもパウロは直接キリストに倣うのではなく、「わたしに倣いなさい」ということを第一コリント書でも繰り返し語っていました。
「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(コリントの信徒への手紙4章16節)
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリントの信徒への手紙11章1節)
フィリピやコリントの教会の人たちが、キリストの福音から引き離すような宣教師に倣ってしまっていたために、そこから引き戻そうとしてパウロが「わたしに倣う者となりなさい」と言っていることは理解できます。それでも、「わたしに倣いなさい」と言っていることには戸惑いを覚えます。不完全で罪深い人間に倣う、ということは、神の子であるイエス・キリストに倣うことと同じではないからです。
「わたしのようになれ」という暴力
「誰かに倣う者となりなさい」ということが強制されたり、押しつけられたりするならば、それは人の命や尊厳を脅かすようなことにもなります。日本(ヤマト)が沖縄(琉球)に対して行ってきた歴史にも、そのような強制や押しつけがありました。
琉球王国は独自の文化や歴史をもった国でしたが、1879年に日本政府が軍隊を派遣し、国王を追放したことによって滅亡しました。琉球を沖縄県とした日本政府は、沖縄を日本化する同化政策を行いました。
たとえば、琉球語(ウチナーグチ)は公の場から排除され、標準語(東京語)の使用が強制されました。学校では琉球語を話した生徒には罰として「方言札」と書かれた木の札を首からぶら下げられました。また、沖縄の歴史や文化は教育から排除され、日本の教育制度を押しつけ、天皇中心の価値観を植え付けようとしました。沖縄の伝統宗教は「迷信」とされる一方、神社が建設され、国家神道が強制されました。
琉球・沖縄には、「日本人のようになること、日本人に倣うこと」が強制されました。そのようにして、表面的には同じ日本人とされながら、しかし実際には本土とは異なる待遇がなされ、二級国民の扱いがなされてきました。
1945年の沖縄の地上戦では軍人だけでなく住民の多くが犠牲となり、生き残った人々もほとんどが収容所に入れられました。1952年に日本が主権を回復してからも、沖縄はアメリカの支配下に置かれ、1972年にようやく日本に復帰することとなりました。しかし復帰後も沖縄に対する構造的差別は続いています。米軍専用施設の70.6%が沖縄に集中し、日常的に騒音、事件・事故・環境汚染が起こりながらも放置され続けています。
「日本人のようになれ、日本人に倣う者になれ」という沖縄への強制は、日本が沖縄を都合よく利用するためのものでした。沖縄はずっと差別され、搾取され続けてきました。その暴力と、「わたしのようになれ」という押しつけがあったことは忘れてはなりません。
「わたしのようになれ」という押しつけは、もっと身近なところ――たとえば学校や職場、家庭、あるいは教会でも起こりうるものです。最近はいろいろなハラスメントが問題視されるようになりました。いじめや仲間外れも繰り返されます。異なる人と共に生きていくことの大切さが語られる一方で、個人を犠牲にするような暴力や、同じものしか受け入れないという同調圧力の問題は乗り越えられていないように見えます。
イエスに倣う
「私に倣え」という押しつけは危険ですが、誰かを見習い、模倣することは、人が成長したり、変わったりするときに必要なことです。私たちも実際に、誰を通して信仰に導かれたり、神の御心に気づかされたりすることはあるでしょう。大切なことは、イエスを模範とすること、神にならう者となることを忘れないことなのでしょう。
エフェソの信徒への手紙では、「神にならう者」となることが語られています。
「あなたがたは神に愛されている子供として、神にならう者となりなさい。キリストが私たちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、いけにえとして神にささげてくださったように、あなたがたも愛のうちを歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章1~2節)
私たちを愛し、私たちの救いのためにご自身を差し出してくださる神に倣う者となろうとすること、それが私たちにできる信仰の応答です。神に倣うことは、この世で神を現してくださったイエスに倣うことです。その具体的な例が、少し前のところに書かれています。
「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソの信徒への手紙4章25~32節)
神に属する者として歩む
エフェソの信徒への手紙では、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」とも呼びかけられています(5章10節)。イエスに倣うことは、主イエスに喜ばれることを考え、それを選び、行うことでもあります。それは強制されて行うものではありません。できないことを無理やり押しつけられることでもありません。神によって変えられた私たちにできることを、自分たちで考え、選び、行っていくことです。
ウロは、「わたしたちの本国は天にあります」と語ります(フィリピの信徒への手紙3章20節)。ローマ帝国の植民都市であったフィリピでは、ローマを本国とする入植者や、ローマの市民権を持っている人もたくさんいたことでしょう。ローマの法によって守られ、たくさんの恩恵を受けていた人たちにとって、自分たちはローマに属し、ローマの一員であるという自覚は当然のことだったでしょう。
しかし、イエスに出会い、救われた人は、この世のものとは異なるものに属します。つまりは神のおられる天に属するのです。本国というのは、いつか帰るべき故郷というだけでなく、私たちが属し、そこに思いを向け、それに倣うものを指しています。私たちは天に――つまり主なる神の民として、この世で生きる。イエスに倣い、イエスの喜ばれることを行い、イエスと共にこの世で生きる。いつか神のもとに迎えられるその日まで、神の恵みと祝福の中で、この世の日々を歩んでいく。それがキリスト者としての私たちの歩みとなるでしょう。
牧師 杉山望
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