礼拝メッセージ(2025年6月8日)「自分のことだけでなく、他人のことにも」フィリピの信徒への手紙2:1~18

自分のことばかり考える問題

フィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」と呼ばれています。喜びを失っていたフィリピの信徒たちが、再び喜ぶことができるようになることを願って、パウロが書いた手紙です。喜びを失った原因は、一つには教会が反対者たちから脅されることがあったこと、もう一つはパウロが監禁されていたことにありました。

しかし、今日の箇所を見ると、フィリピの教会の中にも喜びを失わせる原因があったことがわかります。それは、フィリピの信徒たちが思いを一つにすることができなくなっていた、ということです。

パウロはフィリピの信徒たちに向かって、このように呼びかけています。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピの信徒への手紙2:3)

以前は「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」(2:2)いた信徒たちの間に、利己心や虚栄心が目立つようになっていました。他人のことに注意を払わず、自分の利益や幸福ばかりを考える人が増えていたとしたら、連帯感は失われ、お互いへの信頼も薄くなり、だんだんと距離を取るようになってきて、それぞれの思いを話し合うこともなくなっていたのかもしれません。


他人のことを考えず、自分のことばかり考える、というのは、教会にとっても、また他のどのような共同体にとっても、深刻な問題となります。それは2000年前のフィリピの教会だけの問題ではありません。むしろ今の資本主義社会の方が、自分のことばかり考える傾向は強くなっているように見えます。資本主義では他人と共に生きようとすることは軽んじられて、個人の利益を追い求めることが良い事だとされます。競争は激しくなり、自己責任論が当たり前のように語られ、人と人とのつながりはどんどん薄くなってきました。


自分のことばかりを考えることは、自分の利益や幸福を増やすことにつながりそうですが、現実は生きづらさを感じる人、生きていく上で困難を抱える人が多くなっています。社会的に見ても、経済格差は留まるところを知らず、環境破壊は多くの生物を絶滅に追い込むほどに深刻なものとなりました。他人のことを考えず、自分のことばかり考える、ということは、個人のレベルから世界のレベルまで、想像以上に多くの問題を引き起こしているのではないでしょうか。

他者のために僕となったキリスト

パウロはこの問題を見過ごすことができませんでした。それは教会という共同体にとっても、またキリスト者として生きる個々人にとっても大きな問題であり、それが喜びを失わせる原因となっていたからです。

パウロは「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と訴えます。それはパウロが自分で思いついたことではなく、「キリスト・イエスにもみられるもの」だから教会の人々に訴えたのです。教会のかしらであり、キリスト者の模範であるイエス・キリストに立ち返ってほしい、というのがパウロの願いでした。

そのためにパウロは、フィリピの信徒たちもよく知っていた「キリスト賛歌」と呼ばれる詩を手紙に書きました。それは2章6節から11節までに書かれたもので、当時の教会の間で知られていたキリスト告白の言葉だと考えられています。

キリストは神の身分であり、神と等しい者でした。もしキリストが自分のことばかりを考えたなら、それはこれ以上ない身分であり、何でも思いのままにすることができる力を自由に使うことができたでしょう。人びとから崇められ、この世のすべてを手に入れることができる、足りないものは何もない完全な存在だったわけです。

ところが、キリストはその身分に固執しませんでした。神と等しい者であることさえ手放して、自分を無にして、キリストは僕の身分になったのです。自分にとっては何の利益にもならないけれども、キリストはすべてを失って、僕の身分になりました。人間と同じ者になるだけでも大変なことですが、キリストはそれに留まらず、十字架の死に至る道を歩み続け、最も虐げられた人間となったのです。

一人の人間として生きたイエスには恐れも、不安も、葛藤もありました。悲しみも、痛みも、苦しみも負わされました。それでもイエスは自分の生命を神の手に委ね、死に至るまで神に従って歩み続けました。それはご自身のためではありません。イエスが出会った人々のために、他の人々のために、小さくされた人々のために選ばれたことでした。つまり、イエス・キリストは自分のことではなく、他人のことを考えたのです。「他人は救ったのに、自分は救えない」という道を選んだ方が、イエス・キリストです。(マタイによる福音書27章42節)

「十字架の死に至るまで従順で」(2:8)あったイエスを死から高く引き上げ、「主」という名を与えたのは神です。教会はこの十字架を掲げ、キリスト者はイエス・キリストを主と信じ、イエスを模範として生きようとしてきました。

他者と共に生きようとする人々との協力


教会がキリストの体であり、キリスト者がイエスに倣う者である限り、私たちもパウロの呼びかけを聞き、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」ことを大切にします。資本主義社会の中でどれだけ共同体が解体され、自己中心的な思想が広まっていっても、私たちはイエスに倣うことを手放すわけにはいきません。

その一方で、教会だけが共同体ではなく、キリスト者だけが他人のことに注意を払っているわけでもありません。他の文化や宗教の中にも、共同体を作って他者と共に生きようとするものや、他人のことに注意を払おうとする思想は見られます。教会は社会の中で孤立するのではなく、他の文化や宗教とも共有できることを見いだし、協力し合ったり、励まし合ったりすることもできると思うのです。

たとえば、南アフリカのズールー語にはUbuntu(ウブントゥ)という言葉があります。日本語にはぴったり合う言葉がないのですが、<Ubuntu>とは、「君がいるから僕がいられる」というような意味の言葉です。

この言葉は、ある人類学者がある部族の子どもたちにあるゲームをしてもらったことから、その意味が知られるようになりました。その人類学者は、村の近くのある木に子どもたちが好きな食べ物を結びつけておきました。そして子どもたちを集めて、一番先にその木に走りついた人が食べものを全部食べられる、というゲームをしてもらいました。

人類学者がスタートの合図をしました。予想では、子どもたちはわれ先にと駆け出していくと思っていました。ところが子どもたちは互いに手をつないで、一緒に走り出したのです。そしてあの木にたどり着くと、みんなで食べものを分け合いました。

不思議に思った人類学者は、「誰かが一番早く走り着いたらこれを一人で全部食べられたのに…」と子どもたちに言いました。すると子どもたちは口々に「ウブントゥ」と叫び、「他の人がみんな悲しいのにどうして一人だけ幸せになれるんですか?」 と聞き返したのです。

他人のことを考えることは、遠いアフリカだけで見られるわけではありません。イエスが聖書の掟の原則として教えたこと、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)は、「自分が人からして欲しくないことは、人にしてはならない」という中国の孔子の言葉に通じるものです。

今はまだ、キリスト教が世界最大の宗教となっていますが、教会がイエス・キリストを模範として生き続けるのは難しい時代になっているように感じます。私たちがイエスに倣って、自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払い、他者と共に生き続けるためには、その思いを共有できる人々と協力し合い、励まし合うことが必要だし、そうすることができるのではないかと思っています。

聖霊の働きによって、星のように輝いて

本日はペンテコステの礼拝です。日本語では「聖霊降臨日」と呼ばれ、死から甦ったイエスが天に挙げられてから50日目に、弟子たちに聖霊が降り、弟子たちはほかの国の言葉で神の業を語り出した、という出来事を記念する日です。この日からペトロは公にイエスのことを証ししはじめ、イエスを主とする教会が誕生しました。

ヨハネによる福音書を見ると、聖霊の働きについて、このように書かれています。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネによる福音書14:26)
「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネによる福音書16:13)

聖霊が私たちを助け、私たちにイエスが教えたことを思い起こさせてくださいます。私たちが聖書を読み、礼拝を献げることの中に神が聖霊を遣わしてくださって、神の方からイエスのことを教えてくださる。私たちが何度忘れても、再び思い起こさせてくださるのです。

パウロは当時を「よこしまな曲がった時代」だと言いました。もしパウロが今の時代に生きていたら、同じように「よこしまな曲がった時代」だと言ったかもしれません。他人のことなど考えない、自分のことばかりを考える、ということがまかり通ってしまう。それも隠れてではなく、大っぴらに自己中心的な行動がなされてしまう。それは神の意に反する時代だと言わざるを得ません。

このような世の中にも、大切なこと、受け継ぐべきことがあります。それは聖書の中から伝えられますが、それと通じるものを他のところに見いだすこともできます。聖書から神の御心を教えるのも、この世の中で真理を悟らせてくれるのも、神が遣わされる聖霊の働きです。

私たちは、イエスの教えを思い起こし、イエスに通じる真理を見つけ出すことを続けていきます。そうすることで、これからもキリストに倣う者として生き続けます。「非のうちどころのない神の子」と呼ばれるほどになるのは難しいと感じてしまいますが、夜の闇の中できらめく星のように、この世の中で小さな光を輝かせる者であることは、私たちにもきっとできます。

ペンテコステの日に、ペトロたちの身に起こったことを覚えるとともに、この日だからこそ、聖霊の働きを覚え、イエス・キリストを絶えず思い起こし、この世の中で真理を悟らせてくださるように、願い求めていきたいと思います。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

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 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988