礼拝メッセージ(2025年7月27日)「世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネによる福音書1:29

「見よ、神の小羊だ」――バプテスマのヨハネの宣言に立ち返る
《驚くべき指差し――この方こそすべての中心である!》
兄弟姉妹の皆さん、 この世には多くの問いがあります。 「人生とは何か?」「死んだらどうなるのか?」「本当の救いはあるのか?」 今日、私たちはその答えを、一つの聖句から受け取ります。 それは――「見よ、神の小羊だ。世の罪を取り除く方だ!」(ヨハネ1:29)――このバプテスマのヨハネの叫びの中にあります!
これはただの紹介ではありません。これは宣言です!叫びです!全世界への呼びかけです! この方を見よ!この方を信ぜよ!この方に従え!と。
ヨハネは、自分の方に歩いてこられたイエスを見たとき、彼の心の内に神の霊が燃えるように働いたのです。ただのナザレの大工ではない。ただの旅人でもない。この方こそ、「世の罪を取り除く神の小羊」だ――そう確信して、ヨハネは人々の前で叫んだのです!
そして兄弟姉妹よ、これは二千年前のイスラエルの群衆にだけ向けられた言葉ではありません。これは、今この瞬間、私たち一人ひとりに向けられている神の呼びかけなのです!
《小羊とは誰か――過越の夜からつながる救いの系譜》
「小羊」――この言葉を、当時のユダヤの人々はただの比喩として受け止めはしませんでした。彼らにとって「小羊」とは、明確な記憶と信仰の象徴でした。それは、出エジプトの夜、神の裁きから守られた子羊の血の記憶です。
イスラエルの民は、エジプトの圧政の中から脱出するその夜、神の命令に従って、傷のない小羊を屠り、その血を家の門口に塗りました。その血を見た死の天使は、その家を過ぎ越していきました――「過越(ペサハ)」とはその意味です!
そして今、ヨハネは叫んでいます。 「あの夜の小羊、あの血こそが、この方――イエス・キリストによって成就したのだ!」
この方こそ、神があらかじめ定めておられた贖いの小羊です!この方の血こそ、罪と死を過ぎ越させる「真の過越」なのです!
《取り除くという力――一時しのぎではない、完全な解決》
ヨハネが語ったのは、「罪を覆う神の小羊」ではありません。「なだめる神の小羊」でもありません。ヨハネは叫びました――「取り除く(ἀίρων・アイローン)神の小羊だ!」この言葉には、驚くべき力が込められています。罪を背負う、担う、そして取り去る。
もはや記録から消すのではなく、根こそぎ引き抜く!完全に処理する!永遠に忘れられるようにする! 兄弟姉妹よ、あなたの人生にこびりついたような罪、思い出すたびに胸を締めつける過去の過ち、そのすべてを「取り除く」ことができる方が、今あなたの前におられるのです!
この救いは一部の人だけのものではありません。「世の罪を」取り除くため――全世界、すべての時代、すべての人のために、この方は来られたのです!
《小羊として来られたキリスト――力によらず、愛によって勝たれた》
この世は力に憧れます。政治力、経済力、軍事力――しかし神は、私たちの救いのために、何を選ばれたでしょうか? 「小羊」です!
傷つきやすく、弱く、柔らかく、ただ従順に飼い主に従う存在。 そして、沈黙のまま屠り場へ引かれていく者。これこそが、イエス・キリストの姿なのです。
イザヤ書53章にはこうあります。
「ほふり場に引かれていく小羊のように、口を開かなかった。」
キリストは、自らを守られませんでした。十字架の道を逃げませんでした。 なぜなら、あなたを愛しておられたからです! あなたの罪を、自分のものとして背負うために。あなたの死を、自らの死として受け入れるために。キリストは、あえて力ある王ではなく、「神の小羊」として、この地に来られたのです。
《「見よ」という命令――今も私たちに響く招き》
兄弟姉妹よ、バプテスマのヨハネのこの一言に、私たちは心から応答する必要があります。「見よ!」(ἴδε・ideイデ)――これは、ただ視界に入れることではありません。霊の目を開き、心の中で凝視し、信仰をもって仰ぎ見るという意味です!
あなたは、どこに目を向けていますか? この世のニュースか? 他人の評価か? 自分の失敗か? それとも――十字架にかかられた「神の小羊」か? この方を見よ。十字架を見よ。血を流されたその御姿を見よ。 それが、あなたの救いです!
十字架における小羊の贖い――救いをもたらしたキリストのわざ
《救いは「犠牲」によってのみ与えられる!》
兄弟姉妹の皆さん、 私たちはすでに、バプテスマのヨハネが群衆のただ中で叫んだあの言葉を聞きました――「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ!」(ヨハネ1:29) この一言は、単なる紹介ではありません。それは、天地を揺るがす福音の中心宣言です!
では、その小羊――すなわちイエス・キリストは、どのようにして私たちの罪を「取り除かれた」のでしょうか? 答えはただ一つ。十字架です。十字架なくして救いはありません。十字架なくして赦しはありません。十字架なくして永遠の命はないのです!
イエスは偉大な教師でした。力ある奇跡を行いました。悪霊を追い出し、病を癒し、神の国を語られました。しかし、そのすべては、十字架という頂点へと向かうための道だったのです!
パウロはこう語りました。
「キリストは、まだ弱かった私たちのために、定められた時に、不信心な者のために死んでくださいました。」(ローマ5:6)
この「定められた時」こそが、ゴルゴタの丘でのあの十字架の瞬間。そこに、神の愛と義がぶつかり合い、そして結ばれたのです!
《罪の代価を自ら支払われた小羊――「血なくして赦しなし」》
旧約の律法を見てみましょう。そこには、罪の贖いとして「いけにえ」が繰り返しささげられています。神殿では、祭司が血を流し、罪の赦しを祈り求めました。なぜなら、命は血にあり、血こそが贖いのしるしだったからです。
レビ記には、こう記されています。
「肉の命は血の中にある。わたしはこれを…命の贖いとする。血が命の代わりに贖うのである。」(レビ記17:11)
そうです――贖いには、命が必要だった。しかし、人は完全な命を持っていません。罪に汚れた私たちの命では、神の義を満たすことはできないのです。だからこそ、罪なき方――神の御子イエスが、私たちのために血を流されたのです!
ヘブライ人への手紙はこう証言します。
「山羊や雄牛の血は罪を取り除くことができません。…キリストは、ご自身の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:12、10:4)
もう、繰り返す必要はありません。イエスの犠牲は一度きりで完全なのです! あの十字架の血潮によって、あなたの罪も、私の罪も、すべてが取り除かれるのです!
《なぜイエスだけが「取り除く」ことができるのか?》
ヨハネは言いました――「世の罪を取り除く」と。この「取り除く(ἀίρων・アイローン)」というギリシア語には、ただ覆い隠すのではなく、根こそぎ持ち去る、完全に取り払うという力強い意味があります。
では、なぜイエスだけがそれを成し遂げることができたのでしょうか?それは、イエスが罪なき方だったからです。 完全なる神でありながら、完全なる人として来られ、罪に打ち勝ち、義を全うされたからです! そして、十字架の上で、罪人としての刑罰を自ら引き受けてくださったのです。
パウロはこう語ります。
「神は罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。」(二コリント5:21)
これは驚くべき逆転です! 無罪の方が有罪とされ、有罪の私たちが義とされる。これこそが、福音の奇跡です!
兄弟姉妹よ、イエス・キリスト以外に、あなたの罪を根本から「取り除く」ことができる方はおられません! 他の誰も、あなたの心の深みにまで届くことはできません。
この方だけが、あなたを真に赦し、清め、神の前に立たせてくださるのです!
《十字架の出来事は、今も生きている!》
十字架は、過去の出来事ではありません。それは永遠に現在進行形の救いの力です! あなたが過去にどんな罪を犯してきたとしても、今どんな葛藤の中にあっても、明日がどれほど不安に満ちていても、キリストの十字架の血は、あなたに届きます!
ヨハネの黙示録では、天における礼拝の中心に「ほふられた小羊」の姿があります(黙示録5章)。つまり、小羊の血によって始まった救いは、永遠に続くのです!
十字架の上でキリストは叫ばれました。「成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)
これは、「終わった」という意味ではありません。これは、「完全に完了した、支払い済みだ」という勝利の叫びなのです!
《小羊の血に生きる人生へ――あなたの応答が求められている》
兄弟姉妹よ、今、主の救いの福音があなたに語られています。あなたはどう応答されますか?
・まだ赦されていないと感じているなら――主は赦したいと願っておられます。
・心にとがめを抱えているなら――主はそれを取り除く力を持っておられます。
・疲れ果てているなら――小羊の血があなたに新しい命を注ぎます。
神の小羊であるイエス・キリストは、あなたの罪のために死なれ、そして復活されました。 今日、あなたがその方を信じ、その十字架により頼むならば、 あなたは救われるのです!
招かれた者としての応答――戸を開く者は誰か
《すべては、あなたの応答から始まる!》
愛する兄弟姉妹の皆さん、 ここまで私たちは、神の小羊――イエス・キリストがどのようなお方であるかを見てまいりました。この方は、私たちの罪を取り除くために来られた救い主です。そして十字架において、あなたと私のすべての罪を背負い、命をささげてくださいました。
けれども、ここで忘れてはならない重大なことがあります。それは、この救いが、ただ「聞いて知っている」というだけでは、自分のものにはならないということです。救いは、神の側から完全に備えられています。しかし、それを自分の人生に受け取るかどうかは、私たち一人ひとりの応答にかかっているのです! 知識では足りません。感動だけでも足りません。神の招きに対して――あなたがどう応答するか。そこに、永遠がかかっているのです!
《招詞に耳を傾けよ――戸を叩いておられる主の声を聞け!》
今、私たちは黙示録に記された、主ご自身の声を聞きましょう。
「見よ、わたしは戸口に立って叩いている。 だれか、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、 わたしはその人のところに入って、 その人と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)
なんという深い御言葉でしょうか! 「見よ」――これは、注意を促す呼びかけです。「心の目を開いて、見なさい!」という神の命令なのです。
「わたしは戸口に立って叩いている」――主は遠く離れた神ではありません。あなたの人生の、すぐそばにおられます。 今日、今この時にも、あなたの心の戸を静かに、しかし力強く叩いておられるのです!
でも、主は決して無理やり入っては来られません。鍵を持っておられるのは、あなたです! あなたが、自らの意思で戸を開けるまで、主は待っておられるのです。
《あなたの心の扉は、いま開いているか?》
兄弟姉妹よ、この御言葉は、あなたの人生の主権に触れるものです。あなたは、主の声を聞いていますか? あなたの心の扉は、いま開いているでしょうか?
多くの人が、キリストのことを知っています。 教会に通い、聖書に触れ、救いの話を何度も耳にしてきたかもしれません。 でも――まだ心の扉を開いていない人がいるのです。
なぜでしょうか? 「自分にはまだ信じる準備ができていない」と思っている。「こんな自分が赦されるはずがない」と感じている。「もう少し落ち着いてから考えよう」と先延ばしにしている。
でも兄弟姉妹よ、それはサタンのささやきです! サタンはあなたの応答を、「明日」に延ばさせようとします。しかし、神はあなたに「今日」という恵みを与えてくださっているのです!
聖書ははっきり語ります――「今は、恵みの時、今こそ、救いの日。」(二コリント6:2)
《主と共に食卓につく――それは命にあずかること》
イエスは続けて、こう約束してくださいました。
「わたしはその人のところに入り、 その人と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をするであろう。」
これは、何を意味するのでしょうか? 食卓とは、ただの比喩ではありません。 それは、愛と赦し、親しい交わりのしるしです。聖書において「共に食べる」とは、敵ではなく、家族として受け入れられること。「共に食事する」とは、神と和解し、神の子とされるということです!
あなたが戸を開けば、主は入って来られます。あなたの弱さの中に、あなたの失敗の中に、あなたの孤独の中に、 主はともに座してくださるのです。
主と共に生きる人生――それは、悲しみの中でも希望に満ちた人生、困難の中でも力を受ける人生、罪に打ち勝つ人生です!
《応答のときは「今」――永遠を決める今日の選択》
兄弟姉妹よ、 神の招きに、あとで応えることはできるでしょうか? 聖書は、そうは語りません。 神は「今日、わたしの声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」と命じておられます(ヘブライ3:15)。なぜなら――明日がある保証は、誰にもないからです!
いま、主はあなたの名を呼んでおられます。いま、主はあなたの心の戸を叩いておられます。いま、あなたが戸を開けるなら――主は必ず、あなたの中に入って来られます!
十字架の上で、あなたの罪のために死んでくださった神の小羊――その方が、いまも生きてあなたを招いておられるのです!
《あなたはどう応答するのか?》
さあ、あなたはどう応答しますか? 主をただ知っているだけで終わりますか? あるいは、主をあなたの心に迎え入れますか?
今こそ、決断の時です! キリストは、あなたの罪を取り除くために来られた神の小羊です。あなたと共に歩むために、戸口に立っておられます。主は、あなたを招いておられます。あなたは、今、どう応答されますか?
東京バプテスト神学校神学生:鬼澤寛
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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