礼拝メッセージ(2025年8月17日)「忘れられることはない」コリントの信徒への手紙一15章50~58節

福音の核心である復活
私たちが信じ、宣べ伝えている福音には、「イエス・キリストの死と復活」が含まれています。それは単に含まれているというだけでなくて、福音の核心とも言うべき事柄です。コリント教会の中には、死者の復活を否定する人たちもいたようですが、パウロは、復活を否定すれば、「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまう」と呼びかけています。(コリントの信徒への手紙一15章2節)
太田教会の信仰告白でも、「神は、御子イエス・キリストの十字架の死、そして復活を通して私たちに救いの道を示されました」と告白しています。それでも、復活というのは理解しづらく、その意味や目的を掴みづらいものです。私自身、その全てを理解しているわけではありませんし、今回の宣教の準備をしながら気づかされたことがいくつもありました。今日はそのような「復活」について一緒に考えたいと思っています。
イエスは死を打ち破った
復活について考えるためには、死について考える必要があります。死がなければ、そもそも復活はないからです。特に、聖書の中で死をどのように理解してきたか、ということは、復活について理解する助けになるでしょう。
まず言えることは、肉体の死だけが問題なのではなかった、ということです。土から作られた肉体は、いずれ朽ちて土に帰ります。もちろん、そのような肉体の死も悲しみを引き起こすものですが、復活は肉体が土に帰るということを避けるものではありません。そのため、イエスが復活した後も、肉体の死を避けられる人は誰もいません。
聖書において忌み嫌われ、問題とされている死とは何かというと、それは死が人間を神との関係から全く断ち切ってしまうことです。人が死ぬと虚無に降ります。そうすると、神と断絶され、人としてのあらゆる関係が経たれてしまう。死は無慈悲にも、家族からも、友人からも、隣人からも、そして神からさえも、人を引き離して虚無に放り込んでしまう。それによって、その人の生きてきたことすべてが忘れ去られ、この世にあった痕跡も失われてしまう。そうなると、これまで生きてきたことの意味さえも失われてしまう。そのような死が忌み嫌われ、悪しきものと見られてきたようです。
孤独と虚無に捨てられるような死は、誰もが避けたいと願うものでしょう。しかし、ただ一人、その死をご自分の身に引き受けた方がいました。それがイエス・キリストです。主イエスは十字架の死によって、神と人から見棄てられ、虚無に降られました。その苦難を通して、主イエスは私たちが負うべき罪の報酬としての死を、ご自身の身にすべて引き受けてくださいました。それは他ならぬ私たちのためです。ここに神の限りない愛が示されました。
主イエスは死の力を打ち破りました。もはや死によって誰一人、神から断絶されることも、虚無に落とされることもありません。そこにも既に神の子イエス・キリストがおられるからです。もはや死によっても、私たちを神から引き離すことはできなくなりました。
死者の復活というのは、死の力を打ち破った、ということです。死が終わりではない。死によって忘れられることも、捨てられることもない。主イエスが語られ、行われた宣教の業は、十字架の死によって何一つ無駄になることなく、この世を照らす光であり続けています。その復活は一人だけのものではなく、他の人々の復活も約束されました。
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリントの信徒への手紙一15章20節)
私たちの復活は、キリストの再臨を待たなければなりません。けれども、死の力は打ち破られ、死によって囚われ続けることはない、ということ、虚無の中へ捨てられ、忘れられることはないのだ、ということは、キリストの復活によって確かなこととされたのです。
土の体から霊の体へ変えられる
しかし、コリント教会の中には、復活を否定する人たちがいました。その理由の一つは、復活とは死者が蘇生すること、死んだ肉体が再び動き出すことだと考えたからだと思われます。特に肉体は劣ったものであり、霊や魂が優れたものである、という思想を持っていた人たちにとって、死者の蘇生という意味での「復活」は受け入れがたいものだったようです。
聖書には、死者が蘇生したという出来事がいくつか記されています。旧約聖書にもありますし、新約聖書のヨハネによる福音書11章では、イエスがラザロを生き返らせた出来事が記されています。けれども、パウロが伝えた復活の福音、イエスが死から復活したという出来事は、死者の蘇生とは異なるものです。土から作られた朽ちる肉体が再び動き出す、ということが、福音の核心にあるわけではありません。
復活というのは、同じ体に戻ることではなく、新しい体に変えられることです。そのことを説明するために、パウロは15章37節から、神が色々な体をお与えになっていることを語っています。人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それだけでなく、天上の体と地上の体があり、天上の体として太陽、月、星が挙げられています。
太陽や月、星が「体」と呼ばれることには違和感がありますが、パウロが伝えたいことは、地上の体とは異なる天上の体があり、復活するときは新しい体に変えられる、ということなのでしょう。
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(コリントの信徒への手紙一15章42~44節)
私たちのこの体は、土から作られ、神の生命の息を吹き入れられています。この体は土から作られているので、地に属するものであり、いずれは土に帰ります。地球上でつながる命の連鎖の中で、私たちは命をいただき、また命をつないでいます。土に属するこの姿も、神によって作られ、祝福された姿です。
しかし、復活するときは今とは異なる姿、つまり霊の体に変えられます。霊の体は天に属するものであり、イエス・キリストの似姿であり、朽ちない体、輝かしい体、力強い体です。私たちが死を迎えるとき、土から作られた体が種のように蒔かれて、霊の体が新たに芽生えるように復活する、とパウロは言っています。
忘れられることはない
朽ちるものが朽ちないものに変えられる。その変化は全般的であり、徹底的です。けれどもパウロはここでもう一つ、大切なイメージを語っています。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(コリントの信徒への手紙一15章53節)
パウロによると、復活というのは、古い体を捨てて新しい体に変わる、ということではないようです。それは朽ちるべき体の上から、朽ちない体が着せられるようなものだというのです。新しい体、霊の体に変えられるけれども、それによって死を迎えた体、肉の体が無意味なものだったということにはなりません。
コリント教会の人たちは、霊を重視する一方で、肉には価値がないと考えました。それは地上での生活の意味、この世で生きてきた時間の価値を無にするようなことでもありました。新しいものに変えられるのだから、古いものは忘れられ、無かったことにされてもいいと考えたのかもしれませんし、今を大切にしたり、精一杯の努力をしたりすることも意味がないと考えたのかもしれません。
確かに私たち人間の体は不完全であり、私たちの生涯にも過ちが多く、罪を避けることはできません。弱さを抱え、痛みを抱き、重荷を負うときもあります。それでも、私たちのこの体は――この体で生きる生涯は――、神が祝福して与えてくださったもの、神の愛と恵みが注がれてきたものでした。神が目を向け、心を砕き、御子が地上に降って私たちと共に歩んでくださった。その生涯を無かったことにしたり、捨て去ったりすることは、神の御心ではありません。
復活とは、不完全であったものが完全にされること。弱さが強さに変えられ、朽ちるものが朽ちないものへと変えられていくこと。罪が贖われ、救いに与ること。それを神は不完全なものの上から完全なものを着せることによって行われます。私たちの生涯の歩みを捨てるのではなく、それを受け止めて、そこに新しいものを作り出していくのです。
パウロは、復活によって旧約聖書のイザヤ書とホセア書の言葉が実現すると宣言します。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」(コリントの信徒への手紙一15章54~55節)
私たちのすべてをご存じである神は、私たちが死を迎えた後も、私たちのことを決して忘れません。私たちは先に召された方々のことを覚えています。それ以上に神は召された方々のことを、その生涯のすべてを覚え続けます。私たちが神から離されることはなく、私たちが神から忘れられることはありません。私たちがこの世で生きた日々は捨てられず、忘れられずに、神はその上から新しい霊の体を着せ、完全なものとして復活させてくださるのです。
だから、先に召された方々のこの世の生涯にも、いずれ死ぬことになる私たちのこの世の生にも大切な意味があります。素晴らしいことばかりでなく、うまくいかなかったことも、犯してしまった過ちも、苦しみながら歩んだことも、神はその全てを受け止め、贖ってくださいます。忘れられることなく、霊の体を着せられて復活した私たちは、先に召された方々と共に、神の国へと招き入れられる。その希望をもって、この世での命を最後まで精一杯に歩んでいきたいと思います。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍
『現代聖書注解 コリントの信徒への手紙1』R.B.ヘイズ、日本基督教団出版局、2002年
『旧約新約聖書大辞典』旧約新約聖書大辞典編集委員会、教文館、1989年
『岩波 キリスト教辞典』大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃、岩波書店、2002年
※Susana CiprianoによるPixabayからの画像