礼拝メッセージ(2025年8月3日)「思いやりの連鎖」申命記5章1~6節

今を生きる人々に語りかける主

申命記は、モーセが遺言として語った言葉として書かれています。主なる神に導かれ、エジプトを脱出した人々は、約束の地が目前に迫るところまでたどり着きました。そこでモーセは主から与えられた掟と法を人々に改めて教えました。それは人々が約束の地に入ってから、その掟と法を忠実に守るためでした。


モーセが教える掟と法の中心は、ホレブ(シナイ山)で主から受け取った十戒でした。最初に十戒を与えられてから、約束の地に入るまでに40年が経っていました。しかしモーセはそこで結ばれた神と民との契約を、過去のものとしては語りません。


「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。」(申命記5章3節)


主は今生きている私たちと契約を結ばれた。掟と法は、今日、ここで生きている私たちに向けて語られるのだ、とモーセは語りました。


さらに後の時代には、この箇所はユダ王国のヨシヤ王が宗教改革を行うきっかけともなりました。列王記下22章に書かれていますが、神殿で見つかった律法の書の言葉を聞いたヨシヤ王は、その言葉に耳を傾けてこなかったことを悔い改めて、その掟と法を自分たちに向けて語られた言葉として受け止め直そうとしました。


同じように、聖書の言葉はいつの時代にも、「今日、ここで生きている私たちに向けて語られる」言葉となります。私たちのことも愛してくださる神は、私たちが生命を得、幸いを得るために、私たちにも掟と法を教えてくださいます。聖書が書かれたのは何千年も前のことですが、主は聖書の言葉を通して、いつも新しく、今を生きる人々に語りかけてくださいます。

愛と思いやりという十戒の目的

主から語りかけられる言葉は、その時代、その場所によって変わります。聖書の律法もそれぞれの社会や共同体の中でどのように適用するか、ということは変わっていきます。けれどもその中には変わらないものもあります。今日の箇所で述べられている十戒はその一つです。十戒は他の律法とは異なり、時が経っても変更されることのない特別なものです。


十戒は、神の民の生活にとって重要な事柄を語っています。その掟は、主のみを神として礼拝することから始まり、安息日を守ることを経て、人間社会のことに移っていきます。奴隷の家から導き出された人々が、自由にされた後、主によって与えられた掟と法に沿って生活することで、互いの絆を強め、平和で秩序だった共同体を作ることが目的とされています。


この十戒で最初に語られることは、主なる神の自己紹介です。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(申命記5章6節)


この自己紹介には、主とはどのような方であり、なぜ人々が主の掟と法を守るべきなのか、ということが語られています。主は自由を奪われ、抑圧され、搾取されていた人々を、そこから導き出した方です。重荷を負わされ、助けを求める人々の叫びを聞き、それに応えて行動を起こされた方です。一言で言えば主は愛の神であり、苦しむ人々を思いやってくださる方なのです。


掟としての十戒を教える前に、主が愛の神であることが語られます。そこから十戒が人を奴隷にさせるためのものではないに気づかされます。主は愛の神であり、思いやりを示されたからこそ、その主のみを神とし、主の愛に応えて隣人を思いやる者になっていくことが、十戒の目的です。


聖書には出エジプト記20章にも十戒が書かれています。そちらの十戒と申命記5章の十戒はほとんど同じ内容ですが、一か所だけ明らかに違うところがあります。それが第五戒の安息日の掟です。出エジプト記では、安息日を守ることの根拠として天地創造の7日目に主が休まれたことが語られていました。一方、申命記ではこうなります。


「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5章12~15節)


つまり、神の愛によって導き出されたことを思い起こして、みんなが休むことができるように思いやりを持つことが教えられているのです。思いやりの対象は、自分自身と子どもたちに加えて、奴隷も、家畜も、外国人も含まれます。この安息日の掟は、神との関係と人間社会における責任とが扱われていて、「十戒の中心」だとも言われています。


そのように考えると、十戒というのは神の愛を思い起こし、自分自身も含めたあらゆる隣人を思いやりの対象とする社会を形作っていくための掟だったのかもしれません。そしてそのような十戒の目的は、今も変わることなく大切なものでしょう。

思いやりの連鎖をつなぐ

私は自分に思いやりが足りないと思うことがよくあります。いつでも誰にでも思いやりに満ちた理想的な人物と現実の自分との違いに落ち込みそうになります。また今の社会では個人の成果や利益が優先されていて、思いやりを持つことは後回しにされているようにも感じます。


一方で、思いやりや共感が基本的な人間性であるという研究はいくつもあるそうです。ダーウィンは「共感と思いやりこそ、人類進化における重要な徳目だった」と述べています。2~3歳の子どもでも、苦しんでいる人を慰めたり助けたりしようとすることが多いという研究もあります。また、どのような社会にも助け合いや思いやりを重視する慣習があります。南アフリカの大主教であったデズモンド・ツツが言っているように、「私たちは他人の幸せを気遣うように造られています」。


思いやりは連鎖するので、誰かが思いやりを受けると、その人自身も他の人に親切にしやすくなることが知られています。思いやりを受けたときだけでなく、思いやりの行為を見ただけでも、その人の行動や感情にポジティブな影響が与えられます。思いやりがよく行われるところでは、絆が強まって、信頼や協力が育ちやすくなります。


神が奴隷から連れ出した人たちに作らせようとした社会というのは、思いやりに満ちた社会だったのではないでしょうか。思いやりが連鎖し続け、誰もが思いやりを受けるのが当たり前で、互いを信頼し、協力して生きていくことができる。そんな社会を神が作らせたかったのだとすれば、十戒は思いやりを育む基礎となるものだったのでしょう。


思いやりの連鎖が始まるためには、誰かが思いやりの行為をすることが必要でした。出エジプトを経験したイスラエルの民には、神が思いやりの行為を起こしてくださいました。私たちにも主は思いやりをもって愛を示してこられました。


人間には思いやりが連鎖して伝わるのと反対に、攻撃性や冷たさも連鎖しやすいそうです自分の利益にしか関心を示さず、むき出しの攻撃的な言葉が飛び交うような社会の中では、思いやりの連鎖も途切れやすくなってしまうのでしょう。


そのように人間は誤った道を歩みやすいからこそ、神は約束の地に入る前に、十戒を改めて教えたのでしょう。愛の神の思いやりを受けたこと、それに応えて隣人を思いやって生きることを絶対に忘れてはいけない。そうすることが命と幸いを得る道だ、ということを教えるために。そしてそのことは、今を生きる私たちにも語られている大切なことなのです。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍

『現代聖書注解 申命記』P.D.ミラー、日本基督教団出版局、1999年

 『よろこびの書 変わりゆく世界のなかで幸せに生きるということ』ダライ・ラマ、デズモンド・ツツ、ダグラス・エイブラムス、河出書房新社、2018年

Alana JordanによるPixabayからの画像