礼拝メッセージ(2025年9月7日)「神様からのエール」ヨシュア記1章1~9節

更新される神の約束

ヨシュア記は申命記からの続く物語で、イスラエルの民が「約束の地」へ侵入し、その土地を得て、そこに定着していく様子が書かれています。一方で、今この時、イスラエルと名乗る国家が、まさにこの地で殺戮を行い、土地を奪っています。聖書に記された土地を与えるという約束と、土地取得の物語が、イスラエルの暴力を正当化するために利用されています。

今日はそのことを詳しく話す時間がありませんが、パレスチナ人の聖公会司祭であるナイム・アティークさんが指摘していることを一つだけ紹介します。それは神の約束は更新される、ということです。

「『この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない』と主なる神は言われる。」(エゼキエル書47章22~23節)

ヨシュア記1章2節でも、約束の地は「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地」である、と神が言っておられます。けれども、その約束は更新されたので、パレスチナの土地はイスラエルだけに与えられたものではなくなりました。

聖書の一部だけを切り取って、政治的な思惑を正当化することは、神を自分勝手に利用することです。だから私たちは聖書の記述を安易に現代のイスラエル国家に適用させないように気をつけながら、ヨシュア記を一緒に読んでいきたいと思います。

神は共にいて、見捨てない

今日の箇所では、「強くあれ、雄々しくあれ」という言葉が3回も繰り返されています。申命記とヨシュア記の全体を見ると、合計で8回も語られているので、「強くあれ、雄々しくあれ」ということが強調されていることがわかります。「強くあれ」と訳されたのはヘブライ語の「ハーザク」で、「勇気をもつ、しっかりする、励ます」といった意味があります。また、「雄々しくあれ」と訳されたのはヘブライ語の「アーマツ」で、「奮い立つ、励ます」という意味があります。

私はヨシュア記に戦いのイメージが強かったので、「強くあれ、雄々しくあれ」というのは武器を取って勇敢に戦え、ということだと思っていました。けれども、改めて読み返してみると、申命記でも、ヨシュア記でも、「強く雄々しく“戦え”」とは言われていません。今日の箇所でも、強く雄々しくあることは、神の約束を信頼すること、神の掟に忠実であることと結びつけられています。つまり、「強くあれ、雄々しくあれ」とは、神への信仰を奮い立たせるように、ヨシュアたちを励ます言葉だとわかります。

ヨシュアを励ますために、神はここで二つのことを約束しています。一つは、「あなたと共にいる」ということ。もう一つは、「あなたを見放すことも、見捨てることもない」ということです。モーセと共にいて、見放すことも見捨てることもなかったように、神はヨシュアといつも共にいて、見放すことも見捨てることもない、と約束されました。この約束は聖書で繰り返し語られており、神が私たちにも約束してくださることです。「わたしはあなたと共にいて、あなたを見放すことも、見捨てることもない」、と。

弱さをもった私たちへのエール

ヨシュアとはどのような人だったのでしょうか。聖書ではヨシュアの内面については語られていませんが、私はヨシュアのことを強く勇ましい人だと思っていました。けれども、神は「強くあれ、雄々しくあれ」と言って、何度もヨシュアを励ましていました。もしかしたらヨシュアも励ましを必要とするような弱さをもっていたのかもしれません。

ヨシュアも自分がやらなければいけないことに力不足だと感じたり、自分に迫ってきた出来事に不安や恐れを感じたりしたのかもしれません。あるいはいつも神に忠実であることができるという自信がなかったり、それとは逆に自分の力を過信して神から離れそうになったりしたことがあったのかもしれません。

本当のところはわかりませんが、ヨシュアも私たちと同じように、不完全で弱さをもった人間だったのでしょう。そんなヨシュアを神は選び、大切な使命を与えました。神が用いられるのは、完全で、有能で、力ある人、というわけではありません。むしろ弱さをもち、力が衰え、自身を失い、不安や恐れを抱くような人を通して、神は御心を行います。モーセもそうでした。ヨシュアもきっとそうだったのでしょう。

私たちは一つの民族を導く指導者となるわけではありません。それでも、私たちを通して神は御心を行ってくださいます。それが人の目から見て大きいか、小さいかは重要ではありません。私たちを通して神の愛が表される。私たちの間に神の国が表される。そのために私たちが用いられる。それはとてもすばらしいことです。

神がヨシュアを励ましたように、神は私たちをも励ましてくださいます。「私がいつも共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。だからうろたえず、勇気を出しなさい。与えられた力で立ち上がり、精一杯生きなさい。そこに神の御業が表されるから。」

私たちにも神のエールが聞こえてきます。その声に励まされ、力をいただきながら、神の言葉から離れずに歩み続け、神の御心がなされることを祈り求めていきたいと思います。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍

『ATD旧約聖書註解(5/2)ヨシュア記・士師記・ルツ記』ハンス・ヴィルヘルム・ヘルツベルク、ATD・NTD聖書註解刊行会、2000年

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