礼拝メッセージ(2026年1月11日)「排斥された者の友」マルコによる福音書2章1~12節

中風の人を運んできた人たち
イエス様がガリラヤで活動を始めてからしばらく経ったとき、イエス様と弟子たちはカファルナウムという港町に来ました。カファルナウムは弟子のペトロとアンデレの家があり、以前にも訪れたことがある町でした。既にイエス様の評判が広まっていたので、イエス様がおられることが知れ渡ると、大勢の人たちが押し寄せてきました。あまりの人数のために、イエス様がいた家の入り口の辺りまで隙間もないほどになりました。
少し遅れて、集団でその家にやって来た人たちがいました。その集団の真ん中には、“むしろ”に寝たまま運ばれてきた人がいます。その人は中風であり、体が不自由で、自力では歩くことができませんでした。むしろを運んでいるのは4人の男性ですが、他にも一緒に来た人たちがいました。もしかしたら、中風の人の母や姉妹たちなのかもしれません。
この人たちはイエス様が多くの病人を癒されたという噂を聞いていました。そこで自分たちの家族か友人であった中風の人をイエス様のもとに連れてきたのです。しかし、寝たきりの人を不安定な“むしろ”に乗せて運んできたので、他の人たちより出遅れてしまいました。大勢の人がひしめき合っている家の中に入って、中風の人をイエス様のところまで連れて行くのは、とても無理そうでした。
それでもこの人たちは諦めませんでした。当時のパレスチナでは、1階建ての家の屋上に上るための外階段が作られていました。この人たちはその階段を上り、何と屋根を剝がし始めました。屋根は梁に小枝をかぶせ、その上に泥を塗ったものでした。ですから少しの道具さえあれば、泥を剥がし、小枝を取り除いて、穴を開けることができました。
ただそうは言っても、寝たきりの人を吊り下ろせるだけの穴ですから、それなりの大きさが必要です。ふたを開けるように簡単なことではありません。そこはおそらくこの人たちの家ではなかったでしょうから、誰かに止められたかもしれません。叱られたかもしれません。家の中では、集まった人たちの頭に泥や枝の破片がパラパラと降ってきたかもしれません。
屋根に穴を開けている間、この人たちはイエス様に呼び掛けていたのではないでしょうか。「イエス様、この中風の者を癒してください。今、そちらに降ろします。」驚き、戸惑う周りの人たちの様子が目に浮かびます。それと共に、この中風の人のために必死になっている人たちのことを真剣に見つめているイエス様の姿も目に浮かびます。
逃れられない罪人への差別
ようやく穴が開けられ、中風の人がイエス様の前に吊り降ろされました。するとイエス様は中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。手を置いて癒すのではなく、後で言われるように「起きて、床を担いで歩きなさい」と言ったのでもありません。「あなたの罪は赦されている」と現在形で、今既に起こっていることとして、まず赦しを宣言されました。
「罪は赦されている」と言ったのは、この中風の人が悪人だからではありません。この背景には、当時のユダヤ社会の中では、病気や障害を負うのは本人やその家族が犯した罪が原因だと考えられていた、ということがあります。何も悪いことをしていなくても、この中風の人はその障害のために罪人だと見なされていたのです。
罪を犯すことと、罪人とみなされることは、全く同じではありません。一時の過ちや汚れであれば、誰もが避けることはできませんが、それは贖罪の献げ物によって罪を償うことができました。しかし、中風の人は、自分ではどうしようもない障害のために罪人とみなされていました。罪を償うことはできず、再び民の民として認められることがあり得ない人が罪人とみなされた人たちです。
罪人とみなされたのは、病気や障害を負った人だけではなく、特定の職業に就いている人たちも罪人と呼ばれました。たとえば取税人や遊女、羊飼い、皮なめし職人など、職業上、律法を遵守することができない人たちです。罪人とみなされる職業に就かざるを得なかった人たちが、そう簡単に他の職業に変えられるわけでもなかったことは想像できます。
人は誰もが罪を犯します。しかし当時のユダヤ社会において、誰もが罪人だったわけではありません。罪人とみなされた人たちは、そこから脱出することが事実上、不可能な人たちでした。彼ら・彼女らは、ユダヤ社会から排斥されていて、神殿礼拝をする権利もなく、公的な権利も奪われていました。差別され、偏見をもって眺められ、自分を守ることもできなかった人たちが、「罪人」とみなされた人たちでした。
私たちにとっても変えられないもの、自分ではどうしようもないこともあります。病気や障害もそうですし、職業だって思い通りにできるとは限りません。あるいは民族や出身地といった自分のルーツとか、性別や年齢も変えられるものではありません。それらを理由にして罪人だとみなされ、差別され、権利も奪われるとしたら――それは実際に起こっているし、起こり得ることですが――、どれほど辛く、苦しい状況に陥ってしまうでしょうか。
思い込みと体制維持から生じた反発
中風の人に、「あなたの罪は赦されている」と語ったイエス様の言葉に反発し、怒りを感じた人たちがいました。それはその場に居合わせた数人の律法学者たちです。彼らはイエス様の言葉が神を冒涜することであると考えました。神以外に誰も罪を赦すことはできない、という彼らの考えは、一見するととても敬虔な信仰のように見えます。
しかしここには、「罪人が赦されるはずがない」という彼らの頑なな思い込みがあるように思えます。律法学者たちは自分たちの義しさや浄さを保つために、罪人との接触を徹底的に避けていました。「自分たちは選ばれた民であるけれども、罪人たちは神からも人からも捨てられた者たちだから、そんな者たちを神が赦すはずがない」と彼らは思っていたのでしょう。
さらには、律法学者たちが律法の遵守を人々に求め、それが不可能な人たちを罪人として排斥することは、当時のエルサレム神殿の体制を支え、大祭司を頂点とする階級支配を強め、支えることにもなっていました。ガリラヤの人々は、ローマ帝国とヘロデ王とエルサレム神殿のそれぞれから搾取され、経済的に追い詰められていました。律法を利用して義人と罪人に分け、序列を作り出すことは、社会の中で行われている差別や搾取を正当化することにつながっていました。
律法を守ることが不可能な職業を担わされた人たちが貧しい生活をしていても、それは罪人だから当然だと見なされてしまう。貧しい生活や危険な仕事の中で、治ることのない怪我や病気をしても、罪人になったのは自己責任だと言って見捨てられてしまう。そのことが権力者による搾取を維持し、さらには強化してしまうのです。
イエス様の言葉に反発し、怒りを感じた律法学者たちの反応は、神への信仰に基づいているように見えますが、実際には、罪人が赦されるはずがないという彼らの思いこみと、罪人を排斥することで成り立っていた社会体制から生じたものなのです。
排斥された者の友の信仰
「あなたの罪は赦されている」というイエス様の宣言にはどのような意味があったのでしょうか。この宣言は中風の人が癒されて起き上がる前に語られています。寝たきりで起き上がることのできない中風の人は罪人だと見なされていました。しかしイエス様は、罪人だとみなされている姿のままでも、「あなたの罪は赦されている」と言ったのです。
それはつまり、罪人は赦されず、神の国には入れないという律法学者たちの考えが間違いだった、ということです。罪人ではなくなったら受け入れられる、ということではありません。罪人のままで――律法の規定を守ることが出来ないために罪人だと見なされたままの姿で――、既に神に愛され、招かれ、神の国に入る資格を与えられている、ということです。病気であろうと、障害があろうと、差別されるような職業であろうと、そんなことは神の国に入ることには何の問題にもならないのです。
また、イエス様は中風の人の信仰を見て、赦されていると宣言したのではありません。イエス様が見ておられたのは、中風の人を運んできて、家の屋根まで剥がしてイエス様のところへ連れて行こうとした人たちの信仰です。そこにはイエス様への信頼がありました。私はそれに加えて、この人たちが中風の人のために行ったことや、中風の人に向けた思いの影響もあったのではないかと思います。
中風の人は罪人と見なされて、社会から排斥され、神からも人からも捨てられた存在だと考えられていました。しかしこの人たちは自分たちの行動によって、この中風の人も大切な、かけがえのない存在だという事を示したのです。汗を流し、自分の評判が下がるかもしれないリスクを引き受けて、この人のために出来る限りのことをしました。それは神様が私たち一人ひとりの人間に行ってくださることであり、そこに神の国が現れていました。だからイエス様は将来のこととしてではなく、今既に「あなたの罪は赦されている」と宣言したのでしょう。
さらにイエス様は律法学者たちの考えに反論して、「あなたの罪は赦されている」と言うよりも、「起きて、床を担いで歩け」と言う方が簡単だと言い、中風の人を起き上がらせました。それは奇跡です。イエス様は何度も病気を癒す奇跡を起こされました。そのような癒しの奇跡が簡単なことだと言いたいのではないでしょう。
律法学者たちにとっては、病気が癒されることは、罪人とは見なされなくなることでした。罪がなくなり義しい人間になれば神の国に入ることができる、というのは、律法学者たちの考えであり、ユダヤ社会の中で何の問題もなく受け入れられました。
しかしイエス様は、罪人とみなされたままの姿で、既に赦されていて、神の国に入ることができる、と言われたのです。それはエルサレム神殿体制を揺るがす発言であり、社会の中で当然とされていた差別や偏見、搾取や排斥を打ち破ろうとするものでした。そしてそれは権力者たちの大きな反発と怒りを買い、命を狙われる事態へと発展していきます。こちらの方が、はるかに難しいことなのです。
イエス様は神様の御心を現わして、その社会から排斥され、罪人と見なされた人たちの友となりました。中風の人を運んできた人たちも、同じように罪人と見なされた人の友として行動しました。そこには既に神の国が現れていました。そこに現れた信仰、神様がこの人のことも見捨ててはいないという信仰を見て、イエス様は宣言されたのです。「あなたの罪は赦されている。」
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『荊冠の神学』栗林輝夫、新教出版社、1991年
『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』山口雅弘、日本キリスト教団出版局、2002年

