礼拝メッセージ(2026年1月4日)「悔い改めという贈り物」マルコによる福音書1章1~15節

方向を変える「悔い改め」
マルコによる福音書では、イエス様の前に、バプテスマのヨハネのことが語られています。ヨハネは預言者イザヤが語っていたように、イエス様より先に公の活動を始め、イエス様の進まれる道を準備する者です。
そのヨハネが宣べ伝えたことは「悔い改めのバプテスマ」です。「悔い改め」という言葉を辞書で調べると、「過去の過ちを反省して心がけを変える」(デジタル大辞泉)と説明されています。それは自分が犯した過ちを悔いて反省することに重点が置かれているように思えます。
しかし、「悔い改め」と訳された聖書の言葉は、日本語の「悔い改め」とは少し意味が違っているようです。聖書の「悔い改め」には「転回する、方向を変える」という意味があります。預言者たちはこのことを「立ち返り」とも言いました。方向を変え、立ち返るところはどこかと言うと、それは神様です。神様の方へと向きを変え、立ち返ることが、聖書の「悔い改め」なのです。
ヨハネは「罪の赦しを得されるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝え」ました(1章4節)。「罪の赦しを得させるために」、と語られているので、悔い改めることが神様から赦されるための“条件”だと思ってしまいます。しかし実際には、神様の赦しには何の条件もありません。私たちがどのような者であっても、神様は私たちを赦し、愛し、受け入れ、救おうとしてくださっています。
ただ、差し出されている赦しも、愛も、救いも、背を向けたまま受け取ることはできません。無条件で差し出されたものを感謝しつつ受け取るためには、神様へと向き直すことが必要です。つまりは方向転換としての「悔い改め」です。罪の赦しを受け取るために、私たちは神様に向きを変え、その信仰の告白としてバプテスマを受けるのです。
ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマは人の罪を問い詰めたり、過ちを指摘したりすることが目的ではなかったのでしょう。神様に向きを変えるように人々を招くことがヨハネの働きであり、イエス様が来られるまでの準備だったのです。
神と隣人と自分を愛することが悔い改め
そのように考えると、ヨハネが宣べ伝えた悔い改めは、自分の過ちや失敗を反省して変わることだけを意味しているのではないでしょう。例えば、自己肯定感が低いことも、神様の想いから離れた姿になっているかもしれません。自分はダメな人間だ、とか、自分には価値がない、とか、頑張っても無駄だ、と思ったりするとしたら、それは神様に向かっていないのかもしれません。
なぜなら、神様は私たちを極めて良い存在として創られ、神様の生命の息吹を吹き入れて誕生させてくださったからです。私たちは神様の目から見て高価で尊い存在であり、生まれる前から神様が私たちを選んでくださった、とも言われています。神様は私たちの価値も、可能性も、確かなものとして見ておられるのです。
ですから、自分を愛せず、受け入れられず、認められないときの悔い改めとは、神様の目から見た自分を知ることであり、自分の思いこみやこの世の刷り込みから離れて、神様の想いや神様が語られたことへと向きを変えることになるでしょう。
あるいは今の状況に絶望し、将来に希望がもてないというときも、神様の語られたことから離れてしまっているかもしれません。旧約聖書の哀歌には、祖国の崩壊を経験した人の絶望の思いが歌われています。
「私の魂は平和を失い、幸福を忘れてしまった。私は言った。『私の栄光は消えうせた/主から受けた希望もまた。』」(哀歌3章17~18節、聖書協会共同訳)
そのように絶望的な思いを語り続けた作者は、あるとき、神様へと向きを変えました。
「主の慈しみは絶えることがない。その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない。『主こそ私の受ける分』と私の魂は言い/それゆえ、私は主を待ち望む。」(哀歌3章22~24節、聖書協会共同訳)
自分自身を見ても希望は見いだせない。けれども神様は私を見捨てることがなく、神様の慈しみも憐れみも、決して失われることはない。だから神様がなさることを待ち望もう、と歌ったこの哀歌も、神様へと向きを変えることだと言えるでしょう。
このように神様へと向きを変えることも、悔い改めなのでしょう。もちろん、自分が犯した過ちを反省し、そこから向きを変えようとすることも悔い改めです。神様に向きを変えることは、神様の掟や教えに立ち返ることでもあります。イエス様はたくさんの掟の中で第一のものは何かと聞かれて、このように答えられました。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12章29~31節)
神様を愛すること、隣人を愛すること、自分自身を愛すること、そのどれかが欠けているとき、私たちは神様から離れ、神様に背を向けています。その向きを変え、神様を愛し、隣人を自分のように愛することが、神様への立ち返りであり、聖書の教える「悔い改め」なのです。
贈り物としての悔い改め
悔い改めのバプテスマを授けたヨハネの後から公の場に現れたのが、イエス様でした。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、イエス様は聖霊によってバプテスマを授けました。ヨハネは自分が授ける水のバプテスマよりも、イエス様が授ける聖霊によるバプテスマの方が優れていると語っています。
そのバプテスマはどちらも「悔い改めのバプテスマ」だと言えるかもしれません。つまり、神様の方へと向きを変え、赦しと救いを受け、愛に立ち返るという意味で、どちらも同じ方向を向いているのです。
ただ、ヨハネの水によるバプテスマよりもイエス様の聖霊によるバプテスマの方が、私たちを根本的に、より新しく変わらせるものです。イエス様と出会い、イエス様の御言葉を聞き、イエス様の後に従い、イエス様の御業を見、そしてイエス様の十字架と復活に与る。それによって私たちは向きを変えさせられる。そのことが起こるのが聖霊のバプテスマなのでしょう。
ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤでの宣教活動を始められました。イエス様は神様の福音を宣べ伝えて、このように言われました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)
神の国がすぐそこまで近づいている。神様は新しいことを始められた。今こそ神様に向きを変えて、赦しと救いを感謝して受け取り、神を愛し、隣人を自分のように愛して生きていこう。そこに神の国が現わされ、祝福と喜びがあふれ出す。神様がそのことを起こしてくださるという喜びの知らせを信じ、方向を変えて歩んで行こう、という招きが聞こえてきます。
方向転換である悔い改めは、救いのための条件ではありませんし、神様のために行うものでもありません。それは何よりも私たち自身のためのことであり、私たちが隣人と共に歩み、また神様の下で生きていくために必要なことなのです。
だから悔い改めは神様から私たちへの贈り物です。方向を変えることができる。新しくなることができる。神様の下へと帰ってくることができる。その悔い改めが私たちのための贈り物です。
バプテスマを通して、また主の晩餐式を通して、そしてまた礼拝を通して、私たちは悔い改め、神様へと向きを変えます。神様が最初から変わらずに差し出してくださっていた溢れるほどの祝福と恵み、限りない愛と慈しみを受け取り、またそれを分かち合って生きるために、私たちは神様からの贈り物として悔い改めも感謝して受け取るのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年
『旧約新約聖書大事典』旧約新約聖書大事典編集委員会、教文館、1989年
Rama Krishna KarumanchiによるPixabayからの画像

