礼拝メッセージ(2026年2月1日)「希望という信仰」マルコによる福音書5章23~34節

出血の止まらない女性
この箇所には、一人の女性とイエス様との出会いが書かれています。彼女は12年間もおの間、出血が止まらない病気にかかっていました。命に関わるような病気ではなかったのかもしれませんが、出血が続いたのですから、体調が優れなかったり、生活に支障があったりしたことが想像できます。
それに加えて――あるいはそれ以上に――、彼女を苦しめていたのは、当時のユダヤ社会において出血がある人は汚れていると見なされていたことでした。レビ記15章に書かれているとおり、出血がやまない間は汚れており、その人自身も、その人が触れた物や触れた人も汚れる、と考えられていました。
そのため彼女は家族や友人からも距離を置かれ、共同体の輪の中から排除されてきました。12年間もの間、隔離され、排除されてきた彼女の苦しみ、また孤独はいかほどだったろうと思わされます。しかも病気になることはその人自身かその人の家族の罪が原因だと考えられていましたので、なおさら肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。
そんな彼女は自身の不幸な境遇を嘆いてばかりいたわけではないようです。むしろ積極的に病気に立ち向かい、何とかしてこの状況から脱出しようと試みていました。当時、医者にかかることは当たり前のことではなかったはずですが、彼女は多くの医者にかかり、病気を治そうとしていました。
しかし、何人もの医者にかかっても、彼女の病気は治りませんでした。それどころかますます悪くなるばかりでした。多くの医者にかかったために、全財産を使い果たしましたが、重荷が軽くなるどころか、むしろひどく苦しめられてしまう始末でした。
癒された女性
そんな彼女の住む町にイエス様がやって来ました。彼女もきっとイエス様が多くの病人を癒されたことを知っていたのでしょう。どんな医者も治せなかったこの病も、イエス様なら癒してくださるかもしれない、と期待しながら、彼女はイエス様のもとへ向かいました。
ところがイエス様の周りには大勢の群衆が押し迫っていきました。12年間も人から隔離され、排除されてきた彼女は、どうしたらイエス様のもとへ行くことができるでしょうか。周りの人たちが汚れている自分を通してくれるとは考えづらいことです。むしろ追い返されてしまうかもしれません。
そこで彼女はこっそりとイエス様に近づきました。群衆の中に紛れ込み、誰にも気づかれないように、顔も隠して後ろから近づいていきました。手に触れたら気づかれるかもしれないので、服の裾にちょっとだけ触りました。
するとその瞬間、12年間も止まらなかった出血が完全に止まったことを彼女は感じ取りました。一時的に止まったのではなく、出血していたその元から癒されたのです。そのときの彼女はどんな気持ちだったでしょうか。驚きや喜び、感動など、色んな感情が沸き上がってきたことでしょう。
受け入れ、祝福するイエス
しかし喜びも束の間、予想外のことが起こりました。イエス様に気づかれてしまったのです。彼女を癒す奇跡の力がご自身の内から出て行ったことがわかったからです。急ぎ足で歩いていたイエス様が立ち止まって振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と問いかけました。
彼女は我に返り、急に恐ろしくなりました。イエス様の力の大きさを感じ取り、その力をこっそり奪ってしまったことに気づきました。それに加えて、彼女が触れたことで、イエス様も、また大勢の群衆も、汚れた者と見なされます。そのことが明らかになれば、非難されるだけでなく、暴力を振るわれるかもしれません。
自分がもたらした事態に恐ろしさを感じながら、しかし彼女は逃げ出しませんでした。まだイエス様しか気づいていなかったので、群衆に紛れこめば逃げることはできたかもしれません。それでも彼女は震えながらイエス様の前に進み出て、地面にひれ伏し、すべてをありのままに話しました。自分がこれまでどのように生きてきたのか、なぜイエス様の服に触れたのか、その結果、病が癒されたこともすべてを話しました。
するとイエス様はこのように言われました。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコによる福音書5章34節)
「娘よ」という呼びかけは、この女性を家族の一員のように受け入れたことを表しています。震えながらひれ伏すこの女性に向かって、イエス様は親しみを込めた温かい言葉で安心するよう語りかけました。彼女の行動を何一つ咎めることなく、彼女を祝福して送り出したのです。
希望という信仰
「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。彼女を癒し、救ったのは、彼女自身の力ではありません。それはイエス様の力です。しかし、この出来事には、彼女の信仰が関わっていました。
それは立派な信仰生活というようなものではないでしょう。また、彼女がヨハネやザカリアのように「正しい人」だったということでもないでしょう。イエス様は彼女がありのままを話すのを聞いて、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。彼女のありのままの姿、またイエス様に触れようとした行動に現れる信仰が、イエス様による奇跡へとつながりました。
彼女の信仰は希望だったのかもしれません。12年前、突然の病に襲われ、出血が止まらなくなってしまった。初めはいつかよくなるだろうと楽観視することもできたかもしれませんが、何カ月経っても、何年経ってもよくなりません。医者にかかっても全然よくならず、むしろ苦しめられてしまいます。他の人たちからは隔離され、共同体からは排除され続けました。それでも彼女は病を治すこと、また共同体に復帰し、自分の尊厳を取り戻すことを諦めませんでした。
南アフリカでアパルトヘイト廃止のために尽力したデズモンド・ツツ大主教は、「希望とは、真っ暗闇の中にも光が存在することに、目を向けられること」だと言いました。逆境の中でも諦めないこと、真っ暗闇の中でも光に目を向けられることが希望をもっているということです。何もかも諦めてしまったときには希望を失いますが、逆境でも諦めずにいる限り希望を持ち続けており、新たに前進する力が与えられます。
そのような希望は、楽観とは異なります。物事が順調に進んでいるときは、これからも良いことが起こるだろうと楽観的になりやすいですが、逆境に陥り、先に進む道が見えないときには楽観的にはなりにくいものです。
アメリカで黒人の囚人たちのために活動した弁護士ブライアン・スティーヴンソンは、希望についてこのように述べています。
『「希望は絵に描いた餅ではない」……「悲観より楽観を選べ、という話でもない。希望とは『心を望む方向に整える』ことなのだ。それは、絶望的な状況に身を置いて、目撃者になる意欲をくれる希望。残虐な行為にさらされても、未来はよくなると信じさせてくれる希望。そうした希望は人を強くしてくれる」と。』(『ウブントゥ』より)
楽観とは違って、希望には明確な方向性があります。そしてその方向に進ませる何かへの信頼があります。それが神様への信頼であるとき、希望は信仰となります。変わることのない神様の愛、必ず実現するという神様の約束、驚くべきことを起こされる奇跡の力。その神様への信仰が希望となり、人を支え、前に進ませるのです。
出血が止まらなかった彼女も、神様への信頼を持ち続けていたのではないでしょうか。ひどく苦しめられながら、また周りの人に理解されず、孤独を感じていながらも、彼女が諦めずに進み続けたのは、きっと神様が応えてくださるという信仰があったからなのではないでしょうか。そしてその信仰が、イエス様の服に触れ、イエス様の前にひれ伏す彼女の行動にも表れていたのではないかと思うのです。
後にパウロは希望についてこのように語りました。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章3~5節)
苦難の中でも神の愛を受け、聖霊によって助けられ、御言葉に励まされ、神と出会う。その経験を通して希望が育まれていく。その希望が――希望という信仰が――彼女をイエス様のところまで進ませ、奇跡を起こさせたのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年
『共観福音書の社会科学的注解』ブルース・マリーナ/リチャード・ロアボー、新教出版社、2001年
『ウブントゥ』ムンギ・エンゴマニ、パンローリング、2020年

