礼拝メッセージ(2026年2月15日)「分かち合う未来像を描く」マルコによる福音書8章14~21節

ヘロデ大王とファリサイ派

この箇所には、弟子たちに注意を促したイエス様の言葉があります。

「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」(マルコによる福音書8章15節)

パンを膨らませるパン種は、私たちにとっては必要なものですが、聖書の中では悪い影響力があるもののたとえとして語られます。ですから、イエス様の戒めは、ファリサイ派の人々やヘロデの何かが悪い影響力を持っているので、それに気をつけなさいと言っているわけです。

ただ、それが具体的に何のことであるのか、イエス様ははっきりとは語りません。そのため弟子たちも、「自分たちが一つのパンしか持ってこなかったから、イエス様は怒っているのだ」と考えて、頓珍漢な議論を始めてしまいました。

イエス様がどんなことに注意を促そうとしたのか、想像を膨らませてみたいと思います。そのためにも、ファリサイ派の人々とヘロデとが、どのような人たちであったのか、どのような影響力があったのか、ということに注目してみます。

ヘロデとは、当時のガリラヤとペレア地方の領主であったヘロデ・アンティパスのことでしょう。しかしヘロデといえば、アンティパスの父であったヘロデ大王の方が有名です。ヘロデ大王は40年もの間、パレスチナ一帯を支配した王であり、外交や軍事において天才的な手腕を発揮した人物でした。

ヘロデ大王は、ローマ帝国の実力者に取り入ることで、パレスチナの支配権を得ました。彼は他国からの侵略を防ぎ、また国内の暴動を抑え込むために、軍事力を強化して、いくつかの要塞をより強固なものへと改修しました。さらに国家体制も強化するために、エルサレム神殿の再建にも取り組みました。

政治的な手腕を発揮した一方で、ヘロデ大王は残忍な殺戮者や抑圧的な暴君としても知られています。国民の大半である農民には重い税金を課しました。抵抗する者には容赦なく弾圧を加え、監視、投獄、殺害を繰り返しました。自分の地位を脅かす者だと見做した妻や子どもたちを何人も殺害したことも知られています。

そのようなヘロデ・アンティパスは生き残っているので、父親に敵視されず、他の兄弟たちと領土を分割するような形でガリラヤとペレアの領主となりました。父親ほどの才能や手腕はなかったようですが、彼の支配体制もヘロデ大王に倣ったものだったでしょう。

ファリサイ派は、日常生活において律法を厳格に守り、また人々にも律法遵守を教えた教師のような存在です。彼らは各地に散らばって、農民たちと同じように自分たちの食糧を得るために働いていました。熱心に学び、律法を遵守し、また教える姿勢は、庶民の間でも尊敬を集めていました。

その一方で、ファリサイ派の人々は、律法を犯した人や、仕事や病気などのために律法を守ることができない人々を「罪人」と定め、汚れた者として社会の周辺に追いやりました。それは結果的にエルサレム神殿を中心とした国家体制を支えることになり、祭司長やヘロデ王のような権力者による支配を助けるものとなっていました。

イエスが注意を促したこと

イエス様は、ヘロデ王の政策によって、ガリラヤの人々に何が起きたのか、ということを、身をもって知っていました。またその国家体制の中で、ファリサイ派の人々がどのような影響力を持っていたのかも知っていたのでしょう。

ガリラヤの人々は、三重の徴税によって苦しめられていました。ローマ帝国への献納、ヘロデ王朝からの税金、さらにエルサレム神殿への献げ物が強要されていました。人々は自分の土地を耕して自給自足の生活をしていましたが、三重の徴税によって借金を負わされ、その返済のために土地を失い、日雇い労働者や奴隷として使い捨てられる人が続出しました。

ガリラヤはもともと豊かな土地でしたが、そのような状況では食事も切りつめざるを得なくなり、栄養失調が広がりました。子どもの死亡率も高く、30歳代までに75%の人が病気に苦しみ、劣悪な労働や飢饉、戦争によって死亡したと言われています。

助け合って危機を乗り越えてきた共同体の互助システムも、ヘロデの支配によって破壊されました。ガリラヤの人々から助け合って危機を乗り越える力が失われ、一度躓くと社会の最下層のさらに下である“アウトカースト”まで転げ落ちるようになりました。

ファリサイ派の人々は、庶民には律法を守るように教えましたが、ガリラヤの人々を追い詰める支配層を批判することはしませんでした。ファリサイ派の関心は、人々の生活を聖なるものに保つことに向いていました。その人々がなぜ苦しんでいるのか、なぜ律法を守ることができないのか、といったことには関心を向けず、ガリラヤの人々への搾取や抑圧、弾圧からは目を背けていました。

ファリサイ派は、ガリラヤの人々が追い詰められ、生活が破綻し、アウトカーストへと転げ落ちたとしても、それは自業自得だと見做して罪人と呼び、見捨てたのでしょう。自業自得の罪人であれば、国家による救済や支援も要求しづらくなります。そのような思想を各地で教えるファリサイ派の存在は、支配層にとって非常に都合がよいものでした。

イエス様が注意を促したのは、どのようなことだったのでしょうか。ヘロデ大王は天才的な人物であり、国力を増強し、国家体制を強化しました。しかしそれはガリラヤの人々のような庶民から奪い集めることによって得た力でした。庶民の生活は危機に瀕しており、多くの命が犠牲にされました。奪うことによって力を得ることが、ヘロデのパン種だったのかもしれません。

一方、ファリサイ派の人々は尊敬を集めており、何も問題がないようにも思えます。しかしファリサイ派は人々の間に分断を作り、苦しむ人々を自業自得だと見捨て、搾取や抑圧を正当化する教えを広めていました。それがたとえ熱心さから出たものであっても、現実にそれは人々の命を脅かすものであり、ガリラヤの人々にとって危険なパン種だったのではないでしょうか。

共食の記憶

弟子たちはイエス様が何を言おうとしているのか、理解ができませんでした。そこでイエス様は二つの出来事を思い出させました。一つは五千人に五つのパンを裂いて配り、すべての人が満腹した出来事であり、もう一つは四千人に七つのパンを裂いて配り、すべての人が満腹した出来事です。

五千人というのは、成人した男性だけの人数で、実際には女性や子どもも含めてもっと多くの人がいたかもしれません。四千人の方ははっきりと書かれていませんが、やはり成人男性だけの人数だったかもしれません。このような数え方には当時の家父長制の影響があり、私たちはそれに倣いませんが、全体の人数がわからないので、便宜的に「五千人の共食」や「四千人の共食」と呼びます。

それぞれの出来事はマルコ福音書の6章と8章に書かれています。どちらもよく似た出来事ですが、「五千人の共食」よりも読まれることが少ない「四千人の共食」の方を読んでみましょう。

「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」(マルコによる福音書8章1~10節)

イエスの未来像

この出来事は、ファリサイ派の人々やヘロデのパン種とは異なり、その悪い影響力に抵抗し、それとは違う未来へと向かわせるものです。この出来事は、お腹を空かせた人々に、一度だけパンを分け与えたというものではありません。また、イエス様がその後もずっとパンを与え続けたということもありません。それは神の国を象徴的に表すものであり、イエス様が描かれる未来像を示す出来事でした。

イエス様は、食べ物がなく、お腹を空かせた群衆を見て、「かわいそうだ」と言われました。この言葉は、元のギリシャ語では「はらわたのちぎれる想いがする」という意味があります。つまりイエス様は、人々の苦しみを見て、それを自分のことのように共感して、それに突き動かされたのです。

人間には元来、共感する力が備えられています。人間は生き抜くために共同の目的を行うためのコミュニティや社会を作り、依存し合う関係、互恵的な関係を作り出してきました。しかし時に、一部の人間が権力を振るい、富を独占することが起こります。搾取され、分断され、苦しむ人々に対してイエス様は、もう一度、共同体を作り直し、助け合って生きることの必要を示されました。

イエス様が裂いて配らせたパンは、弟子たちが持っていたパンでした。パンは天から降って来るものではありません。その時、持っているものを分かち合ったのです。ある時は分ける側になり、ある時には分けられる側になる。そして分けた者も、分けられた者も、みんなが満腹して、なお余りあるほどに恵まれる。それは奪い、独占する世界では起こりません。分かち合うことで実現される光景です。

五千人の共食と四千人の共食は、その出来事が起こった場所の違いがあります。五千人の共食はユダヤ人の地で起こりましたが、四千人の共食は異邦人の地であったとも言われています。そうであれば、イエス様は国も民族も関係なく、もちろん性別も年齢も地位や身分も関係なく、この分かち合いの出来事を起こされた、ということになります。

今の世界や日本を見ていると、ガリラヤの状況に似てきていると感じることがあります。格差は急速に拡大し、途方もないほどの資産を増やし続ける人がいる一方で、中間層は没落し、多くの人が生活に苦しさを感じ、将来に不安を抱いています。人が生きるために必要なものさえ保証されず、他者の痛みに共感しづらくなりました。人と人との絆は分断され、憎悪と暴力が蔓延しています。

そのような世界の中に、イエス・キリストは来られたということを、忘れないでいたいと思います。私たちの生きるこの世で、イエス様は苦しみに共感し、パンを分かち合われました。イエス様の描く未来像は、奪い合うことが当たり前となったこの世界とは異なります。それは分かち合う未来像です。私たちもファリサイ派やヘロデのパン種の影響にさらされています。だから私たちもイエス様の戒めを聞き、イエス様が現わしてくださった未来像を心に留めます。私たち人間が生きていくために欠かすことのできないこと、分かち合って生きることができる未来に向かうその時まで、私たちも語り継いでいきましょう。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年

『ガリラヤに生きたイエス いのちの尊厳と人権の回復』山口雅弘、株式会社ヨベル、2022年

『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』山口雅弘、日本キリスト教団出版局、2002年

『「分かち合い」社会の構想――連帯と共助のために』神野直彦・井出英策・連合総合生活開発研究所、岩波書店、2017年

CouleurによるPixabayからの画像