礼拝メッセージ(2026年2月22日)「共に主の言葉を聞く」マルコによる福音書9章2~13節

就任感謝礼拝

いよいよ牧師就任感謝礼拝が明日に迫ってまいりました。これまで何度も話し合い、じっくりと時間をかけて準備してまいりました。まだ今日の午後にも準備がありますが、この日を迎えられることをまず主に感謝いたします。様々な事情で、当日は教会には来ることが叶わない方もおられますが、それぞれの場で祈りを合わせたいと思います。

牧師の就任を感謝する礼拝ですが、牧師のために行うわけではありません。これは何よりも教会の出来事だと考えています。2009年に始まった太田教会の歴史の中で、これまで奥田稔牧師、林健一牧師、石井努牧師と共に歩んできました。最初に13名が派遣され、そこに一人また一人と加えられてきました。太田から離れた方や、主の御許へと召された方もおられます。その歴史に、また新しい出来事が始まっている。これを主が導いてくださったことを覚えて感謝し、これからも共に主の言葉を聞き、主に従って歩んでいくことを改めて確認するときになればと願っています。

そしてこの日は、私たちだけで覚えるのではありません。当日は70名余りの方がこの教会に集ってくださる予定になっています。きたかんの諸教会のほか、東京や金沢、札幌からも集まり、Zoomで参加してくださる方々もおられます。参加のご連絡をいただく際に、お祝いの言葉もいただきましたので、二つだけご紹介します。

「太田教会のみなさま 主の平和 杉山望牧師就任感謝礼拝を迎えるにあたり、心よりお祝い申し上げます。貴教会と杉山牧師とが出会い、共に生きることを通して、神の出来事が起こっていることを幸いに思っております。すでにはじまっている貴教会の歩みが守られ、導かれ、ますます豊かでありますよう、お祈り申し上げます。引き続き、協力伝道の交わりの中で、どうぞよろしくお願い致します。 大宮バプテスト教会 一同」

「杉山望牧師の御就任を心よりお喜びいたします。栃木県内に唯一のバプテスト連盟加盟教会である宇都宮教会にとって太田教会はつくば教会とならび70Km程度の距離で比較的行き来しやすい立地です。交流が活発となり互いに支え励まし合う教会として祈りと思いを繋いでいけたらと願っています。杉山望牧師と太田教会に集うメンバーの心が強く繋がり太田の地に福音が広げられていくとともに、主の御栄光の光が満ち溢れることを宇都宮教会の会員一同祈ってまいります。」

私たちのこと、太田教会のことを、多くの人が覚えて祈ってくださっています。明日も心を合わせて共に喜び祝ってくださいます。太田教会はこれまでも他の教会とのつながり、様々な協力と交わりの中で歩んできました。そのつながりと交わり、協力関係が、これからも続き、ますます豊かにされることも願っています。

イエスを知るための経験

マルコによる福音書は、イエス様が神の子であることを伝えています。福音書の初めに、著者であるマルコはこのように書きました。

「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マルコによる福音書1章1節)

イエス様は神の子であり、救い主である。そのイエス様の福音がどのように語り始められ、何が行われたのか、それを伝えるのがマルコ福音書だ、ということが語られています。

そのため、マルコ福音書では、イエス様が「神の子」だと呼ばれる場面が何度かあります。ただし、他の人から呼ばれるのではなくて、神様がイエス様に向かって「わたしの子」と呼んだり、汚れた霊がイエス様を見て「神の子だ」と言ったりしています。そのときには、まだ誰にもわからなかったけれども、神様や霊にはイエス様が神の子だとわかっていた、ということでしょう。

今日の箇所では神様が雲の中に現れて、このように語っています。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコによる福音書9章7節)

イエス様が神の子だということは、イエス様の行われることは神様によって承認されているということであり、イエス様の語られることは神様の想いを伝えるものだということです。だから神様は、神の子であるイエス様に聞くように、とおっしゃったのです。

ただそう言われても、なかなか理解できないのが人間です。この場面では、イエス様は弟子たちの中からペトロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて高い山に登りました。するとイエス様の姿が変わり、服はこの世の物ではないほど真っ白に輝きました。そこに旧約聖書の代表的な人物であるエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合いました。3人の弟子たちは驚きのあまり、何と言えばいいのかわからず、目の前で起きていることを恐れてしまいました。

そのような弟子たちに神様の声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」、と。きっと、言葉は理解できても、それがどのようなことなのか、自分たちがどうすればいいのか、ということは、弟子たちにはわからなかったでしょう。きっと私がそこにいても、弟子たちと一緒におどおどするだけだったと思います。

イエス様は、弟子たちと一緒に山を下りるときに、「今見たことをだれにも話してはいけない」と命じました。だれにも話さないようにということは、他のところでも言っておられます。時が来るまで、弟子たちが勝手に話してはいけないということもあったでしょう。

ただここでは、いつまで話してはいけないか、という期間が区切られていました。それは、「人の子が死者の中から復活するまで」です。つまり、イエス様が捕らえられ、十字架に架けられて殺され、墓に葬られてから三日目に復活される。その時まで、だれにも話さないように、ということです。

弟子たちが語ることができる時、語る準備ができる時は、イエス様の死と復活を見て、それを経験してからのことだったのでしょう。弟子たちはこれまでにも何度も奇跡を目の当たりにして、たとえ話の意味も説明してもらっていました。それでも弟子たちが、イエス様の語られたことや行われたこと、特に十字架の死の意味を理解するためには、復活の主イエスと出会うという経験が必要だったのです。

共に聞くバプテスト

キリスト教会は、この弟子たちの経験を通して立てられていきました。教会には主の言葉を聞くということが欠かせませんが、聞いたことを理解するためには、私たちには経験が必要なのかもしれません。

私たちはバプテスト教会ですが、バプテストは1609年に誕生しました。宗教改革が始まった中で、カトリックの影響を残した英国国教会から離れて、聖書のみに基づいた信仰と教会形成を選び取ろうとしたのがバプテストでした。

このバプテスト教会では、最初のころの礼拝は聖書研究の交わりを中心としたものでした。国教会から離れましたので、聖職者中心の教会形成にはなりません。教会を形作る一人ひとりがイエス様の弟子として応答することが大切にされました。そのため、牧師だけでなく教会員にも按手をして、それぞれの立場で宣教に携わり、牧会を担い合うようにしたようです。

説教も、ひとつの礼拝に複数の説教者が立てられて、その箇所を巡ってみんなでディスカッションをしていたという記録もあるようです。始まったばかりの過渡期にあったからこそかもしれませんが、わたしにはそれぞれが自分の経験を通して聞きとった主の言葉の意味を分かち合い、話し合うところにバプテストらしさが現れているように思えます。

また、バプテスト派には上部組織は存在しません。それぞれの教会が決定したことに対して、指導をしたり、変更させたりするような外部の権力を作りませんでした。教会同士の間には上下関係がないのです。ただそれは、教会同士が孤立しているということではありません。当時の信仰告白にはこのような言葉があります。

「諸教会は互いの平和のため、愛が増し加わるため、相互の薫陶のために交わりを持つ。」(「第二ロンドン信仰告白」1677年)

それぞれに独立しながらも、教会間の交わりを持つことには積極的でした。ある意味、現在の私たち以上に関わりは深く、問題が起こった時には助言者が派遣されることもありました。半年ごとに総会が開催され、各教会から集まった代表者が、その時々に教会で問題になっていることや課題となっていることを持ち寄って、話し合っていました。

これらのことは、「万人祭司」や「各個教会主義」と言われるバプテストの特徴です。キリスト教会ですから、イエス様の十字架と復活を通して、聖書の言葉を聞くことは大切なことです。それと共に、今、この世で生きている私たちに語られている言葉を聞き、それを信仰として表し、教会を建て上げるために、それぞれの経験から聞き取った主の言葉を語り合い、共に主の言葉を聞く。それもバプテスト教会だったのではないかと思います。

共に聞き、分かち合って

私たちはイエス様の生の声を聞くことはできませんが、聖書を通して主の言葉を聞くことができます。その時私たちは誰もが、自分の経験を通してその言葉を聞いているのではないでしょうか。

それは豊かなことですが、一人で読むだけではわからなかったり、独りよがりになったりしてしまうこともあるでしょう。それは牧師であっても信徒であっても変わりません。主との出会いも、自分の経験も、一人だけよりも二人、三人と集まった方が多く、豊かになるでしょう。

そのことを、教会学校や祈祷会での分かち合いを通して経験してきました。その時間だけでなく、教会で共に過ごす時間、そこで語られる言葉や姿勢からも、私たちは互いに色々なことを学び、気づかされ、感じ取ってきたことでしょう。

私たちは聖書の言葉を大切にしています。けれども、今、この世の中でどのように生きるべきなのか、何を大切にすればいいのか、主の弟子として歩むとはどのようなことなのか、ということは、直接的な言葉としては見つけられないかもしれません。だから私たちは、今も生きて働いておられる主の言葉を、私たちの経験を通して聞くことで、今、語られている主の言葉の意味を共に聞いていくのです。

そしてそのことを、一つの教会だけでなく、他の教会との交わりの中でも行うことができるのは、私たちにとって豊かな恵みです。毎年、行っている相互訪問も、連盟や連盟の集いも、そのような機会になっているでしょう。しかし、なかなか出かけづらくなったり、集まりの場が減ったりすることもあります。だからこそ、明日は貴重な機会だとも思います。

共に主の言葉を聞き、それに応えていく群れとして、私たちはこれからも歩んでまいりましょう。また、共に主の言葉を聞き、励まし合い、助け合って歩むことのできる教会間のつながりが与えられていることも感謝しましょう。バプテストとして、私たち一人ひとりが、また一つひとつの教会が経験し、聞き取った主の言葉を、これからも分かち合い、主と共に歩んでまいりましょう。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年

『共観福音書の社会科学的注解』ブルース・マリーナ、リチャード・ロアボー、新教出版社、2001年

『いま、バプテストを生きる―バプテストの教会形成の課題を共に考える―』日本バプテスト連盟、2012年

Tyli JuraによるPixabayからの画像