礼拝メッセージ(2026年2月8日)「追いやる掟と愛する掟」マルコによる福音書7章1~13節

手を洗うファリサイ派と洗わない弟子たち
イエス様はガリラヤの村や町を周り、多くの病人を癒されました。イエス様が行った奇跡の噂は、村でも町でも瞬く間に広まりました。次第にガリラヤ中でイエス様の評判が高まり、誰もがイエス様に期待を寄せるようになりました。
しかし中にはイエス様に批判的な人たちもいました。律法を厳格に守り、他の人たちにもそれを強要したファリサイ派の人たちです。彼らは旧約聖書に書かれた律法だけではなく、昔の人から伝えられた言い伝えも固く守っていました。社会の変化に応じて律法の解釈を広げ、生活のあらゆる場面で祭儀的な汚れを避けられるようにと考えていたようです。
あるとき、エルサレムからファリサイ派と律法学者の人たちがイエス様のもとへやって来ました。病気を治してもらおうとしたわけではなく、教えを乞おうとしたわけでもありません。評判が高まってきたイエス様がどのような人物なのかを見に来たようです。もしかしたらガリラヤのファリサイ派の人々からイエス様のことを聞いていて、警戒していたのかもしれません。
ファリサイ派の人々は、イエス様や弟子たちの様子を見張っていました。夕方になったのでしょうか。イエス様と弟子たちは食事を始めました。するとファリサイ派の人たちは、弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを見つけました。すると彼らはイエス様に言い寄りました。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」(マルコによる福音書7章5節)
昔の人の言い伝えでは、食事をする前には手を洗わなければならない、とされていました。そうでなければ手の汚れが自分の中に入り、自分自身を汚してしまうからだ、というのが理由なのでしょう。ファリサイ派の人たちは、汚れることを避けるため、食事の前には念入りに手を洗いました。それだけでなく、人の多い市場から帰った時には、手だけでなく、全身を洗ってからでないと食事をしなかったようです。
そのようなファリサイ派の人たちからすると、手を洗わず、汚れた手で食事をする弟子たちはとんでもない過ちを犯しているように見えたことでしょう。「汚れを避け、浄い者でいることを怠っている。汚れた弟子たちを黙認しているイエスも過ちを犯した罪人なのではないか。」ファリサイ派の人たちはそのように考え、イエス様に食って掛かったのです。
前提の違い
この箇所だけを見れば、私たちはファリサイ派の人たちの方が共感できるかもしれません。私も食事の前に手を洗いなさいと言われたことも、言ったことも、何度もあります。特に私たちは新型コロナウイルスの予防のために今まで以上に手を洗うことも経験しました。感染症予防のためには、手だけでなく、全身を洗えばより効果的だということも知っています。
ではなぜ弟子たちは手を洗わなかったのでしょうか。ファリサイ派の人たちのように汚れを避けることに熱心ではなかったからでしょうか。汚れた手で食事をすることで、感染症などにかかるリスクがあることを知らなかったからでしょうか。私はそれとは違う理由もあったのではないかと想像しました。
ガリラヤは乾燥地帯であり、雨は冬の間にしか降りません。川から水を引くことはできませんし、水道もありません。生活のための水は、ほとんどが井戸や貯水池から汲んできたものでした。水汲みは主に女性の役割とされていましたが、水がたっぷりと入った水がめを家まで運ぶことは重労働だったでしょう。
水は貴重なものであり、いつでも自由に使えるわけではなかったのです。蛇口をひねれば水が出てくる生活に慣れていると想像しづらいことですが、その日に使える水の量は決まっていて、それをどのように使うかということを考えながら生活していたのです。
そのような制限の中で生活していた弟子たちは、いつでも手を洗えるような生活はしていなかったのかもしれません。食事の前には手を洗わなければならないと教えられたことはあったかもしれませんが、その言い伝えを守ることは、彼らの生活の実態からかけ離れていたのかもしれません。
エルサレムには水源から街中の貯水池へと水が流れる地下トンネルがありました。その水はエルサレムの人々の生活と、浄めの儀式のために使われていました。もしかしたら、エルサレムから来たファリサイ派の人たちは、水に困るような生活をしていなかったのかもしれません。彼らにとっては、食事の前に手を洗うかどうかということは、言い伝えを守る意志があるかどうかの問題だったのかもしれません。
しかし、ただ手を洗うというだけのことであっても、それをいつも行うことができるかどうか、習慣とすることができるかどうか、ということは、それぞれの人の置かれた状況や環境によって、前提が大きく異なってくるものです。もしかしたら弟子たちは、手を洗うということが当たり前ではない生活をしていたのかもしれません。
神の掟を捨てていたファリサイ派
ファリサイ派の人たちは自分たちが昔の人の言い伝えを守ることに熱心であっただけでなく、周りの人たちにもそれを守るように教えました。その熱心さから尊敬されることもあったようですが、人の置かれた状況や環境よりも教えを守ることを優先してしまう傾向があったようにも見えます。
ファリサイ派の人たちは、律法や言い伝えを守ることができない人たちを「罪人」と定め、社会的な尊厳を貶め、周辺へと追いやりました。罪人と呼ばれた人の中には、羊の世話のために安息日を守れない羊飼いや、動物の死骸に触れなければならない精肉業者や皮なめし業者などもいました。それが社会の中で必要とされる仕事であっても、律法や言い伝えを守ることができないなら罪人だと言い広めたのです。
罪人だと定めることは、その人の名誉に関わるだけでなく、社会の中の格差を正当化する根拠として利用されました。ファリサイ派の人たちが差別をすることを目的としていたのではなかったかもしれませんが、避けようのない理由で罪人と定められた人は差別の対象となりますし、そうすることは当時の権力体制を保つことにもつながりました。
その反面、ファリサイ派の人たちはすべての律法を守っていたわけではないようです。イエス様は、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコによる福音書7章8節)と批判しています。
「あなたたちは行っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。」(マルコによる福音書7章11~12節)
高齢になり、子どもの世話が必要になった両親に対して、何もしない・あげないことの正当化に、言い伝えを利用しているというのです。しかし律法では、「あなたの父と母を敬え」と定められています。結局のところ、ファリサイ派の人たちは自分たちの都合のいい言い伝えを利用しているだけであって、律法を通して示されている神様の御心に従おうとしているのではなかったのです。
イエス様はファリサイ派の人たちを「偽善者」だと厳しく批判されました。それは神様の教えを利用して人を分け隔て、社会の格差を正当化し、差別を生み出し、自分勝手に生きることを良しとしてしまう、そのような在り方を批判するものでした。
いつまでも変わらない神様の目的
ファリサイ派の人たちが、食事に関する言い伝えを特に重視していたのは、捕囚後のイスラエルが置かれた状況と関係がありました。バビロニア帝国によって征服され、国の主だった人たちは捕虜として連れ去られたバビロン捕囚以後、異邦人との関わりが増えていきました。その中でユダヤ人であることの印の一つが食事に関する規定を守ることでした。
その規定は、一方では衛生の目的をもったものもありました。それと共に、何が浄く、何が汚れているかという線引きは、神の民と異邦人とを分けるしるしにもなりました。だからこそファリサイ派の人たちはこの規定を破ることを全力で避けましたし、規定を守れない人びとは神の民からもれている罪人だと見做したのです。
ファリサイ派は浄い者と汚れている者、神の民と神から見棄てられた者との線引きを行いました。しかしイエス様は、たびたびこの線引きを踏み越えていきました。この世に産まれた時から、イエス様の周りには罪人と呼ばれる人たち、社会の周辺へ追いやられた人たちがたくさんいました。イエス様はその人たちも神の民であること、神に愛され、受け入れられている存在であることを、その言葉と行動で宣言されました。そしてそのことが、エルサレムの宗教者たちがイエス様に敵対する要因ともなりました。
イエス様の目には、いくらファリサイ派の人たちが熱心であっても、彼らは律法に込められた神様の目的から外れているように見えました。その目的とは何か。律法の本来の目的はなんであったか。それはイエス様がお答えになっています。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコによる福音書12章29~31節)
律法は、私たちが神様の想いを知り、御心に適った社会を形作っていくための道しるべです。時代の変化と共に、文字通りに適用することは難しくなっていきますが、その目的に沿って歩み、その目的に適う社会を作っていくことは、いつの時代にも求められています。
聖書の言葉は、人と人を分け隔てるものではありません。神様の言葉を聞き、神様の掟を知った者たちが、自分を愛するように、隣人を愛する者になっていくこと。家族、友人、知人、さらにはこの社会で生きる人たちを「私の隣人」として受け止め、「隣人を自分のように愛する」ことが広がっていくこと。それが実践される社会へと変わっていくことが、いつの時代も変わらない神様の目的です。
残念ながら、私たちは人と人との分断が深まり、排外主義も強まる時代に生きています。それを正当化する思想や価値観、さらには法律もあちらこちらで耳にします。しかし、神様が指し示す方向はいつも変わりません。違う立場にある人たちの置かれた状況を知り、共に生きていくための道を探し求めていきましょう。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』山口雅弘、日本キリスト教団出版局、2002年
『共観福音書の社会科学的注解』ブルース・マリーナ/リチャード・ロアボー、新教出版社、2001年
『イエス時代の日常生活Ⅲ』ダニエル・ロプス、山本書店、1965年
『旧約新約聖書大事典』旧約新約聖書大事典編集委員会、教文館、1989年
『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年

