礼拝メッセージ(2026年3月1日)「隣人になってください」マルコによる福音書10章32~45節

受難予告と弟子の無理解

ガリラヤで福音を伝え、癒しと奇跡を行っていたイエス様が、弟子たちと共にエルサレムへ上っていきます。エルサレムは政治と経済と宗教の中心地でした。その途上で、イエス様は御自身が受けることになる苦難と死について、またその後の復活について、弟子たちに話しておられました。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコによる福音書10章33~34節)

死と復活の予告は、これで三度目ですが、弟子たちはそれを理解することが出来ませんでした。それどころか弟子たちは、イエス様とは違う方向を向いていました。

最初の受難予告は8章31節にあります。それを聞いたペトロがイエス様をいさめ始めると、イエス様はペトロを叱りつけ、弟子たちと群衆を呼び寄せて、このように言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコによる福音書8章34~35節)

二度目の受難予告は9章31節にあります。弟子たちはその予告を聞いた後に、自分たちの中で一番偉いのは誰かと議論していました。それを知ってイエス様は弟子たちにこのように言われました。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコによる福音書9章35節)

今回の三度目の受難予告では、イエス様を訴えるのがエルサレム神殿の祭司長や律法学者であること、さらにローマ兵によって侮辱され、唾をかけられ、鞭うたれることが語られました。より具体的な受難予告でしたが、それでも弟子たちはイエス様のおっしゃったことがわかりませんでした。

それどころか、十二弟子のヤコブとヨハネは、自分たちをイエス様の側近として、イエス様に継ぐ地位を与えてほしいと願い出ました。それを知った他の十人の弟子たちは、抜け駆けをした二人を妬み、腹を立てました。そんな弟子たちに、イエス様はこのように言われました。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10章43~45節)

人間の支配する国と、神が治める国

弟子たちはイエス様とは違って、異邦人のように考えていました。ここでの異邦人とは、第一にローマ帝国のことですが、ローマに取り入って権力を得たヘロデ王や、ローマの支配下で特権を得ていた祭司長や律法学者たちも合わせて考えてもよいでしょう。これらの一握りの人たちが支配者となって他の多くの人たちを支配し、権力を振るって人々を抑圧し、富を奪い取っていました。

その支配と権力によって、ガリラヤの人々の命が踏みにじられていました。そのため、ガリラヤではいくつもの抵抗運動が起こり、弟子たちの中にもそれに加わったり、共感したりする人がいたようです。

そんな弟子たちがイエス様に期待していたことは、ローマ帝国による支配――それと共にヘロデ王やエルサレム神殿による支配――を終わらせ、新たな支配者としてイエス様が君臨することだったのでしょう。イエス様が新たな支配者となったとき、自分たちもその側近として特別な地位を得たいという思惑が、弟子たちの中にはあったようです。

しかし、そのような弟子たちの思惑は的外れなものでした。なぜならイエス様は、ご自身が新たな支配者となることを目指してはいなかったからです。もちろん、ガリラヤの悲惨な現状を知っていたイエス様は、それを黙って見ていることはできませんでした。

弟子たちは一握りの人間が支配し、権力を独占する社会体制のまま、その支配者が変わることを思い描いていたのかもしれません。一方、イエス様はもっと根本的に社会体制そのものが新しくされていくことを目指しておられたのでしょう。イエス様が思い描き、目指していたもの、それは一握りの人間が支配する国ではなく、神様が治める“神の国”です。

神の国の関係性

受難予告に続くイエス様の言葉から、神の国の特徴について考えてみましょう。そこでは社会的な関係性が変わっていくように思います。

ガリラヤの人々は、ローマ帝国やヘロデ王、エルサレム神殿によって徴収される税や献げ物によって苦しんでいました。支配者のもとに集められた富は支配者層の中で分配され、社会体制を維持するために利用されていました。

一方、ガリラヤの村や町では、それとは違った関係の中で人々が暮らしていました。例えば家族や親しい友人の間では、富を分け合ったり、助けを必要とする人に手を貸したりということが当たり前に行われていました。何かを支払わなければ助けてもらえないとか、何かを受け取ったら見返りが求められるといったことはありませんでした。

あるいはもう少し距離のある関係――親族関係や共同体――では、お互いの利益が釣り合うように、何かをしてもらったなら、同じくらいのものをお返しすることで関係が維持されていました。どこかに偏るのではなく、バランスを取ることを配慮していたわけです。

イエス様がおっしゃったこと――十字架を背負いなさい、とか、すべての人に仕えなさい、とか、すべての人の僕になりなさい、といったこと――を、当時の支配関係の中に当てはめようとすると、差別され、搾取され、抑圧され、命を踏みにじられることを甘んじて受けるように求められていると感じてしまうかもしれません。

しかしイエス様は、そのような社会体制とは違った神の国を目指しておられました。だからイエス様がおっしゃったことは、助け合い、協力し合う関係――家族や友人、共同体のような関係――の中で聞かれるべき言葉なのでしょう。

一握りの人間が支配する国では、支配関係が強められる一方で、助け合い、協力する関係が壊されていきました。イエス様が伝え、現わした神の国は、そのような共に生きようとする関係の中に現れるものです。共に生きようとする関係が回復し、人と人とが仕え合い、助け合って生きられる世界をイエス様は目指しておられるのではないでしょうか。

隣人になるということ

先週の牧師就任感謝礼拝の中で、連盟の理事である富田直美先生が、以前、私の書いた聖書教育の平和メッセージのことを話してくださいました。富田先生は、「『隣人に出会うことと、隣人になることは違います』という言葉が印象に残っています」とおっしゃっていましたが、それは私が言ったことではなくて、私が問われた言葉です。

私が札幌教会にいたときに、北海道で「隣人に出会う旅」が行われました。アイヌ民族の歴史と存在を学ぶ旅の中で、長年、アイヌの人々と関わり続けてきた三浦忠雄牧師が、「隣人に出会うことと、隣人になることは違います。隣人になってください」と言ってくださったのです。

人と人とが分断される時代の中では、他者と出会うことはとても大切です。ですがイエス様はそれに留まらず、隣人になることを求められました。イエス様が語られたたとえ話では、強盗に襲われた旅人の介抱をしたサマリア人が、隣人になった人でした。強盗に襲われた人はユダヤ人であり、サマリア人とは互いに関わりを避けていました。

しかしこのサマリア人は、半殺しにされた旅人を憐れみ、傷の手当てをして、宿に連れて行って介抱し、傷が治るまでの宿泊代まで払いました。それが隣人になるということでした。家族や友人、共同体の中だけでなく、誰かのことを知り、その人のために祈り、時には助けたり協力したりする。それが隣人になるということです。

そしてそれは、イエス様ご自身が私たちのために――すべての人のために――なさったことでした。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10章45節)

私たちが誰かの隣人になったり、あるいは誰かに自分の隣人になってもらったりしたとき、そこにはイエス様が目指した神の国が現れているでしょう。だからイエス様は今も呼びかけています。「隣人になってください」と。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『共観福音書の社会科学的注解』ブルース・マリーナ、リチャード・ロアボー、新教出版社、2001年

『ガリラヤに生きたイエス いのちの尊厳と人権の回復』山口雅弘、株式会社ヨベル、2022年

Ming KinによるPixabayからの画像