礼拝メッセージ(2026年3月15日)「裏切り者のために流された血」マルコによる福音書14章12~26節

過越の食事

ユダヤ教の三大祭の一つである過越祭。それは、エジプトの奴隷であったイスラエルの人々が、神様の奇跡によって解放されたことを記念する祭りです。過越祭のとき、エルサレムには各地からの巡礼者が溢れかえり、人口が倍増するほどになりました。その巡礼者の中に、イエス様と12人の弟子たちがいました。

ガリラヤからエルサレムに来たイエス様ご一行は、日中はエルサレムにいましたが、夜になるとベタニアへ行きました。ベタニアはエルサレムから3㎞ほどのところにある村で、そこに寝泊りして、夜の食事もベタニアで食べていました。

過越祭は、過越の食事で始まります。人々は羊をほふり、それを家族で食べることで、出エジプトの出来事を次の世代に伝えながら、神様との絆を確認してきました。イエス様と弟子たちが過越の食事を共にするということは、イエス様と弟子たちとが家族のような絆でつながっている、ということになります。

弟子たちは過越の食事をどこに用意すればいいのか、イエス様に尋ねました。いつもベタニアで夕食を食べていたので、弟子たちとしては、ベタニア村のどこの家で食事をするのかを尋ねたつもりだったのかもしれません。ところがイエス様は、弟子たちに「エルサレムへ行きなさい」と言いました。

そこで二人の弟子がエルサレムへ行ってみると、イエス様がおっしゃった通り、水がめを運んでいる男性を見つけました。その人について行って、家の主人に過越の食事の場所を尋ねると、2階の大きな部屋に案内してもらえました。すべてが整えられていくような、神様の不思議な導きを感じながら、弟子たちは過越の食事を準備しました。

夕方になり、イエス様と12人の弟子たちは、用意された部屋に入り、過越の食事を始めました。それはエルサレムで食べる最初の――そして最後の――夕食でした。弟子たちは特別な思いをもって、この食事の席についたことでしょう。エルサレムの人たちがイエス様を新しい王の到来として迎えたように、弟子たちもいよいよ新しいことが始まるという期待を高めていたかもしれません。

ところが、その食事の席で、イエス様は驚くべきことをおっしゃいました。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(マルコによる福音書14章18節)

それは弟子たちの高揚した気持ちをかき消し、しまい込んでいた不安を噴出させるような、衝撃的な一言でした。

裏切る者の不幸

裏切りというのは、いつの時代でも、どのような場所でも、最も非難される行動の一つです。裏切られた人には強い怒りや悲しみを抱かせ、人間関係を修復不可能なほどに引き裂いてしまいかねません。弟子たちにとっても、誰かが裏切ろうとしているという宣言は衝撃的なものであり、心が痛むほど悲しいものでした。

イエス様が裏切り者だと言っているのは誰なのだろうかと考えながら、まさかそれは私のことではありませんよね、と弟子たちは代わる代わるに言い始めます。するとイエス様は続けてこう言われました。

「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコによる福音書14章21節)

この頃の夕食は、麦や豆を煮込んだスープを大皿に入れ、パンをスプーン代わりにして、みんなでその大皿から取って食べました。ですから、一緒に食べ物を浸している者が誰であったのか、はっきりしたわけではなかったかもしれません。ただ、家族のように一緒に食事をする者が裏切ろうとしている、ということは、より強く意識させられます。

イエス様を裏切ろうとしていたのは、イスカリオテのユダでした。彼はすでに祭司長たちのところへ行って、イエス様を引き渡すことを提案していました。祭司長たちはその見返りに金を与える約束をしましたが、ユダの目的ははっきりとはしていません。「裏切る」と訳されている言葉も、「引き渡す」という意味の言葉です。ユダの裏切りとは、イエス様を祭司長たちの手に引き渡すこと。その後に起こったことは、ユダの想像していたものではなかった可能性もあります。

いずれにしても、ユダは祭司長たちにイエス様を引き渡しました。その後、イエス様は次から次へと他の人物に引き渡されていきます。祭司長たちからローマ総督のピラトへ引き渡され、ピラトからローマ兵に引き渡され、そして最後にローマ兵によって架けられた十字架の上で、イエス様は死に引き渡されます。神様のもとから引き離され、捨てられていくのです。

ただしこれは、ユダのせいで起こったことではありません。ユダが祭司長たちのところに行く前から、既に祭司長たちはイエス様を捕らえて殺そうと企んでいました。当時、ローマ帝国への反逆者として処刑された人は、イエス様以外にもたくさんいました。ですから、ユダが何もしなかったとしても、イエス様の死は避けられなかったでしょう。それは神様が認めたことであり、イエス様が受け入れたことでもあったからです。

それでも、イエス様の期待や信頼を裏切り、イエス様を祭司長たちの手に引き渡したユダの行いは、不幸をもたらします。その不幸は、他の誰でもない、ユダ自身にとっての不幸です。「生まれてこなかった方が、その者のためによかった」というのは、“裏切り”が自分の生きてきた意味、イエス様と共に歩んできた時間を無駄なものとしてしまう過ちだからです。この言葉でイエス様は、歩むべき道を外れてしまったユダの不幸を嘆いているように思えます。

裏切り者のために流された血

イエス様がこの最後の晩餐で、パンを裂いて弟子たちに与え、また一つの杯から皆でぶどう酒を飲んだのは、弟子たちの中に裏切り者がいることを告げた後のことでした。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコによる福音書14章22~24節)

裂かれたパンは、十字架上で裂かれるイエス様の体を表しています。そのパンを食べることで、弟子たちはイエス様の苦しみと死に与ります。つまり、イエス様が苦しまれることも、死に引き渡されることも、弟子たちにとって「私のため」の出来事となります。

杯に注がれたぶどう酒は、鞭うたれ、十字架に架けられたイエス様が流された血を表します。その血は「契約の血」だとイエス様はおっしゃいました。出エジプト記では、「契約の血」は神様とモーセたちを結び付けるものでした。つまり、契約の血だと言われたぶどう酒を、一つの杯から飲むことによって、イエス様は弟子たちと新たに結びつけられるのです。

このパンと杯は、12人の弟子たちに分け与えられました。その中には、イエス様を引き渡そうとしているユダもいました。もし、裏切り者がユダだと断言していれば、彼をそこから追い出し、パンと杯に与らせないこともできたでしょう。しかしイエス様は、ユダにも与え、ユダとも結びつけられました。

ただ考えてみると、イエス様を引き渡したのはユダですが、イエス様の信頼を破り、約束を捨てたという意味では、他の弟子たちもイエス様を裏切ることになります。イエス様が捕らえられるとき、10人の弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。ペトロは大祭司の中庭までついていきましたが、イエス様との関係を問われたとき、「イエスなんて知らない」と三度も否定してしまいます。

そうなることを知りながら、イエス様は12人の弟子たちのためにパンを裂き、杯からぶどう酒を飲ませました。裏切る者がいたにもかかわらず、そのようにされたのではないのかもしれません。むしろ、イエス様の流された血――契約の血――は、裏切る者のためにこそ流された血だったのかもしれません。

私たちのための新しい契約

イエス様の地上での最後の食事となったこの過越の食事を、後の教会は主の晩餐として覚え続けてきました。イエス様が十字架で体を裂かれ、血を流されたことは、私たちのためでもあったことを思い起こし、私たちとも結びついてくださるイエス様を覚えて、私たちも毎月、主の晩餐式を行っています。

私たちも、あの弟子たちと同じような者です。イエス様のことを誤解したり、自分の理想を押し付けてしまったりすることがあります。他のものの力に引っ張られて、イエス様を引き渡してしまうこともあります。トラブルが起こると慌てふためき、イエス様のもとから逃げ出してしまうこともあります。イエス様に信頼しきれずに、その関係を手放そうとすることもあります。私たちも弟子たちのように、イエス様を裏切る者であったし、これからも信頼や期待に背いてしまう者でもあるでしょう。

そのことは、神様やイエス様に対して申し訳ない、というだけではありません。自分自身にとっても、それは不幸なこと、もったいなく、残念で、悲しいことだとわかっています。そんなことがない方が、私自身のためにもよかったのです。それをわかっていても、繰り返してしまうのが、私たちの弱さであり、罪深さでもあります。

だからこそ、しっかりと覚えていたいと思います。イエス様は、裏切る弟子たちと共に――あのユダとも共に――最後の晩餐を過ごされたことを。私たちのためにもイエス様は十字架にかかり、私たちとも結びついてくださっていることを。あの十字架で流された血は、裏切り者のために流された血であり、裏切ってしまう私たちを決して離さず、結びつき、引き戻すための新しい契約の血であったことを。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『共観福音書の社会科学的注解』ブルース・マリーナ、リチャード・ロアボー、新教出版社、2001年

『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年

『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年

『ギリシア語 新約聖書釈義辞典Ⅲ』新井献・H.J.マルクス監修、教文館、1995年

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