礼拝メッセージ(2026年3月22日)「誘惑に陥らないための祈り」マルコによる福音書14章32~42節

大統領執務室での祈り

今日は祈りの箇所ですが、今月になってから、ある祈りの動画がSNS上で拡散されました。その動画には、アメリカの大統領執務室で、全米から集まった牧師たちがトランプ大統領を取り囲み、手を置いて祈る様子が映っていました。アメリカとイスラエルによるイランへの戦争が続く中で、トランプ大統領に神の導きと神からの力が与えられるように祈ったようです。

このような祈りがなされたこと、またその背景について、私たちはクリスチャンとして知っておくべきではないかと考えています。そこに集まった牧師たちの中には、日本バプテスト連盟のルーツである米国・南部バプテスト連盟の牧師もいたようですし、私たちがこの祈りに心を合わせることができるか、信仰を共有しているか、ということも考えることが必要だと思うからです。

この祈りの場を用意したのは、トランプ政権が発足させた「信仰局」のトップであるポーラ・ホワイトです。彼女も含め、そこに集まった牧師たちは、トランプ大統領を強力に支持する「福音派」に属しています。「福音派」といっても、一つのグループとしてまとめることが難しいほど、多様な考え方のグループがあります。その中でポーラ・ホワイトたちの「福音派」は、政治的な権力にも影響を及ぼして、アメリカ社会を変革しようとしています。

今回の祈りを動画配信したことも、トランプ政権とこの「福音派」との連帯をアピールし、イランへの戦争をキリスト教を利用して正当化する意図があります。トランプを支持する「福音派」では、中東で大戦争が起き、「ハルマゲドン(終末戦争)」に至ってイエス・キリストが再臨する、という世界観を持っています。アメリカ軍の一部の司令官も、その世界観に基づいて、「全ては神の聖なる計画の一部だ」と部下たちに語り、この戦争を正当化したそうです。

信仰によって戦争を正当化することを、人類は繰り返してきました。宗教戦争となることで外交や交渉が無くなり、自分たちは絶対的な正義で、相手は悪魔だと信じ込むならば、どれほど悲惨な過ちが起こされるか、ということを、私たちは歴史から学ぶことができます。

また、ポーラ・ホワイトは、日本政府による旧統一教会への解散命令請求を批判しています。彼女は2021年に、旧統一教会の集会で挨拶をしており、創立者の文鮮明(ムン・ソンミョン)の妻であり、現在の総裁である韓鶴子(ハン・ハクチャ)を偉大な霊的指導者だと称えています。

旧統一教会による霊感商法による被害と、それによって家族が壊され、子どもたちが人生を壊されてきたことは、山上徹也被告の裁判でも明らかにされてきました。一方ではカルト集団を褒め称え、他方では国家の戦争を信仰によって正当化する。それがトランプ政権と結びついた一部の「福音派」の実態です。

このような一部の「福音派」の言葉であっても、信仰的な話だけを聞けば、それを信じて受け入れてしまうかもしれません。しかし、悪い実を結ぶ木は警戒しなければなりません。私にとっては、トランプ政権と結びついた「福音派」の信仰は受け入れられません。あの大統領執務室での祈りも、心を合わせることができるようなものではありません。

傲慢な祈りと謙遜な祈り

十字架に架けられる前の夜、イエス様は弟子たちを連れてゲッセマネという所へ行き、そこで祈られました。既にイエス様は、祭司長たちに捕らえられ、ローマ兵に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、殺されることになることを知っておられました。そしてその時が迫ってきたため、ひどく恐れ、もだえ始められ、三人の弟子たちには、「わたしは死ぬほどに悲しい」と心境を告白しました。

そしてイエス様は、弟子たちから少し離れた所に行って、地面にひれ伏し、このように祈られました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章36節)

三度、繰り返されたイエス様はこの祈りは、大統領執務室での祈りとは何が違っているのでしょうか。苦しい状況の中で、祈りをささげたこと、祈ってほしいと願ったことは似ているかもしれません。しかし、その祈りが向かう方向は真逆といえるものでした。

あの「福音派」の牧師たちは、アメリカのトランプ大統領とイスラエルのネタニヤフ首相が始めたイランへの戦争を、神の計画だと語って正当化しました。しかしこの戦争をすることを決めたのは人間です。神の啓示を受けたわけではなく、人間が自分たちの目的のために始めたことを、神の名によって正当化しました。それは、神を人間に従わせる傲慢な過ちです。

一方、イエス様は神様への信頼を語りながら、できることならこの苦しみを過ぎ去らせてほしいと祈りました。神様はどんなことでもできるので、自分の苦しみを過ぎ去らせることもできることを、イエス様はご存じでした。それでもイエス様は続けて、「しかし」と祈ります。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

ゲッセマネでのイエス様の祈りは、恐れ、悲しんでいる自分の想いを率直に語りながら、それでも自分の思い通りになることではなく、神様の御心に適うことが行われることを求める祈りでした。それは神様に信頼して委ねる祈りであり、神様に従う謙遜な祈りでした。

委ねる祈りの難しさ

イエス様の祈りをなぞって祈ることは私にもできます。けれども、それを自分の祈りとして、心からの求めて祈るということは、私にとって簡単なことではありません。

イエス様は「アッバ、父よ」と神様に呼びかけました。「アッバ」とはアラム語で、親しみを込めて父親を呼ぶ言葉です。だから「お父ちゃん」とも、「パパ」とも訳されます。自分が神様に愛されていることと、自分も神様を愛していることが、その親しみの前提となっているように思えます。イエス様はこれから十字架に架けられることを知っていました。それは神様に見捨てられたような凄惨な死の姿です。それほど追い込まれた事態の中で、イエス様は神様に親しく呼びかけました。

続けてイエス様は、神様には何でもおできになるという信仰を告白しました。私は自分の経験してきたことや知っていることから、こんなことは無理だろうと諦めてしまうことがあります。でも、無理だと思っていたことが、予想外に実現することも経験してきました。神様は私の常識や限界の範囲に収まるような方ではありません。イエス様は神様にできないことは何一つないことを確信しておられました。

そしてイエス様は、ご自身の苦しい思いを率直に語り、「自分に襲い掛かろうとしている苦難を取りのけてください」と祈りました。自分の恐れや悲しみ、不安や苦しみを素直に語るというのは、意外と難しいことです。私は自分の立場に合わせて取り繕ったり、周りの人の反応を想像して気持ちを押し込めたりしがちです。でもイエス様は、弟子たちにさえ、「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃいました。神様に対しても隠すことなく自分の思いを語り、願いを打ち明けられました。

その上でイエス様は、自分の思いや願いの通りになることではなく、神様の御心に適うことが行われることを祈りました。特に感情が高ぶっている時は、自分の考えた通りになることが一番いいと思ってしまいがちです。でも後から振り返ると、もっと良い選択肢もあるし、自分の考えが悪い結果になることもあります。神様の御心が行われることには、私に対する御心も含まれているでしょう。イエス様は自分の思い通りになることではなく、神様の御心に委ねられました。

その祈りを心から願うことは、イエス様にとっても当たり前のことではなかったのかもしれません。弟子たちの所から離れて祈り、一度戻って来て、また離れて祈る、ということを繰り返されました。三度の祈りがどれほどの時間であったのかはわかりませんが、弟子たちが眠ってしまうほどの間、イエス様は祈り続けていたのかもしれません。その祈りの時を通して、イエス様は神様の御心に委ねる決心を固められました。

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マルコによる福音書14章41~42節)

「もうこれでいい」、「立て、行こう」と言えるまでには、私には一晩の祈りでは足りないでしょう。できたり、できなかったりということを繰り返しながら、この祈りに挑戦し続けていくことになるのかもしれません。ただ、私たちには祈れなくても、イエス様は私たちに先立って、私たちを担って、祈ってくださった、ということは覚えたいと思います。

誘惑に陥らないための祈り

ゲッセマネでの祈りの場面で、もう一つ印象的なことは、弟子たちが何度も眠ってしまうことです。少し離れて祈っていたイエス様が戻って来る度に、弟子たちは眠ってしまっていました。情けないことだと思いますが、弟子たちのその弱さは、私たちの弱さを映しているようにも思えます。

そんな弟子たちに――あるいは私たちに――イエス様は言われました。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マルコによる福音書14章38節)

つまり、ゲッセマネで求められた祈りは、誘惑に陥らないための祈りなのです。

その誘惑がどんなことであるのか、はっきりとは書かれていませんが、単に睡魔のことを言っているわけではないでしょう。その誘惑は、イエス様の祈りとは反対の方向に私たちを向かわせようとするものかもしれません。つまり、「神様の御心ではなく、私の願い通りのことが行われますように」という誘惑です。

振り返ってみると、弟子たちはイエス様の受難予告を聞いていながら、誰が一番偉いのかと議論し合ったり、イエス様に継ぐ地位を約束してもらおうとしたりしていました。神様の御心を求めるのではなく、自分の地位を高めようとした弟子たちは、イエス様を裏切ることになります。ある者はイエス様を敵対者に引き渡し、ある者はイエス様が捕らえられたときに逃げ出し、ある者は自分を守るためにイエス様を知らないと三度も語ることになります。

神様の御心を知ろうとせず、その御心が行われることを求めないで、自分に有利なことを求め、自分の願い通りが行われることを最優先にしてしまう。そのような誘惑に陥らないように、私たちはイエス様に倣い、イエス様と共に祈ります。私たちの想いや想像を超えて、神様の御心が行われるならば、それは私にとっても、私たちにとっても、またこの世に生きる人々にとっても、人間以外の被造物にとっても良い事になると信じるからです。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年

『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年

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