礼拝メッセージ(2026年3月8日)「それは誰のもの?」マルコによる福音書12章13~17節

イエスを罠にかけるための問い
イエス様は弟子たちを引き連れて、エルサレムに来られました。ロバの子どもに乗って来られたイエス様を、多くの人が期待をもって迎えました。それは約束された救い主、新しい王が来たという期待であり、「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ声はエルサレムの街中に響いたことでしょう。
翌日、イエス様は神殿の境内に入りました。そこで献げ物のための両替をしたり、鳩を売ったりしている人たちの台や腰掛けをひっくり返しました。さらに弟子たちに命じて、境内へ物を運び入れることを妨害させました。祭司長たちはそれを支配体制への批判と受け取り、「イエスをどのように殺そうか」と相談し始めました。
そのような中で、祭司長たちからイエス様のところへ派遣されたのが、今日の箇所のファリサイ派とヘロデ派の人たちでした。律法を厳守することを何よりも大切だと考えていたファリサイ派と、ヘロデ王に従ってローマを崇拝していたヘロデ派は、考え方が違いましたが、ここではイエス様を罠にかけるために協力をしています。彼らは二者択一の質問を用意していました。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納 めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか。」(マルコによる福音書12章14節)
この質問は、ファリサイ派やヘロデ派の人たちが悩んでいたものではありません。ローマの崇拝者であったヘロデ派は、当然、税金を納めたはずです。民衆には律法遵守を求めたファリサイ派も、体制には従っていましたので、ローマへの税金を拒むことはなかったでしょう。つまりこの質問は、彼らがもっていた問いではなかったのです。
支配者であるローマへの税金を拒否したのは、ガリラヤで立ち上がった革命家たちでした。彼らは皇帝の神聖さを表すような硬貨も、ローマ皇帝が税金を徴収することも認めませんでした。つまり、この質問は、イエス様がガリラヤの革命家と同じであるかどうかを明らかにさせるためのものだったのです。
もしイエス様が革命家たちのように「皇帝に税金を納めてはならない」と言わせれば、そのときはローマへの反逆罪としてイエス様を訴え、捕らえることができます。逆に「皇帝に税金を納めてもよい」と言わせれば、それは革命家を支持していた民衆の期待に背くことになり、イエス様への支持も失われていくでしょう。どちらに転んでも、イエスを排除することができるだろう、と彼らは考えていたのです。
ところが、イエス様の答えは予想外のものでした。イエス様は二者択一の問いには答えません。代わりに彼らにデナリオン銀貨を持ってこさせ、そこに書かれた肖像と名前が皇帝のものだと言わせた上で、このように言われました。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコによる福音書12章17節)
神のものと皇帝のもの
皇帝のものとは何であり、神様のものとは何でしょうか。結論から言ってしまえば、聖書はすべてが神様のものである、ということを繰り返し述べています。
「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。」(申命記10章14節)
「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」(ヨブ記41章3節)
「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。」(詩編24編1節)
その中でも、主の民とされた人たちや、主によって与えられた土地は、特に主のものであることが強調されています。
「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(詩編100編3節)
「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎ ない。」(レビ記25章23節)
このような聖書の信仰から考えると、皇帝のものだと言えるものは、せいぜい皇帝の肖像画と名前が彫られた銀貨くらいのものです。ローマ皇帝は、銀貨を自分のものだと主張することはできます。しかし、パレスチナに住む人々も、その土地も、神のものであって、皇帝のものではありません。だから皇帝が土地や人に関連した税金を徴収することには正当性がないと言えるのです。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言うときの「返す」という言葉は、土地を持ち主に返すときに使われる言葉なのだそうです。つまりイエス様の言葉には、「皇帝のものは皇帝に返してあげればいい。しかし逆に、神のものは皇帝が神に返さなければならない」、という意味が含まれています。
そしてそのことを、ファリサイ派やヘロデ派の人々、また彼らを派遣してきた祭司長や律法学者たちに問いただしています。宗教的な指導者として神の名をかたりながら、あなたたちは神のものを神に帰しているのか。神のものが神に返されることを求め、訴えているのか。自分たちの特権に甘んじて、皇帝に組みしているのではないのか。そのように、ご自身を罠にかけようとした人々に対して、イエス様は鋭く問い返したのです。
「自分のものだ」という傲慢
「世界は神のものである」という思想は、欧米社会の根底にまだ残っているようです。また日本には唯一の神という信仰はありませんでしたが、この世界が個人のものではなく、一時的に預かっているものだ、という思想は見られるようです。全く同じではありませんが、世界各地で似たような思想は見いだすことができるようです。
その一方で、近代社会では私有財産制となり、個人や法人がそれぞれの財産を持ち、それをどのように使うかを自由に決めることができるようになりました。また様々な発明によって強大な武力を持ち、遠くまで出かけていくことができるようになったことで、領土を広げ、富を奪い、作り出すことが行われてきました。
しかしその弊害も現れてきたために、力や自由の制限が行われることもありました。富を再分配するような仕組みが作られたり、行動や事業の制限がなされたり、環境保全が求められたりする仕組みが作られてきました。力の行使も無制限に認められるわけではなく、他国を侵略する行為は国際法違反とされるようになりました。
聖書において「神のもの」というのは、神様が自分のために使うもののことではありません。神様が創り、生命を与えた者たち――人間を含めた様々な生き物たち――のために使われるべきものだということです。聖書は人と人、また人と他の生き物が共に生きるために、――産めよ、増えよ、地に満ちよという祝福が実現するために――神のものを用いることを促しているのです。
しかし人間は力を持つと、「自分のものは自分のもの」だと言って、他者のことも、環境のことも考えずに、自分勝手なことをしてしまうことがあります。その結果として格差を拡大させ、他者の命を脅かし、また環境を破壊してきました。そのことを人類は何度となく繰り返し、反省する中で、立ち返るべきものを確認してきたのでしょう。
2月28日、イスラエルとアメリカがイランに戦争を仕掛けました。関係改善に向けた外交交渉を行っていた中で、それを時間稼ぎとして利用しながら、一方的にイスラエルとアメリカが仕掛けた戦争です。私はこの戦争を、アメリカによるベネズエラの大統領の拉致や、イスラエルによるガザ地区の住民へのジェノサイドと繋がっている暴挙だと捉えています。
この戦争は、アメリカの議会を通さずに決められ、国連での協議もありませんでした。トランプ大統領は、イランの住民を殺害することも、イランの指導者を決めることも、自分の自由にできることだと考えているように見えます。
イスラエルはパレスチナの土地を武力によって奪い、パレスチナ人を追いやって国を作りました。このことはユダヤ教徒の中からも、神の意に反する行為だとして批判され続けています。しかしネタニヤフ首相はガザ地区の住民から土地を奪うことも、食料や水を奪うことも、命を奪うことも、自分の自由だと考えているように見えます。
このような態度は、この世界を神のものとする信仰とは程遠いものです。むしろ神を捨て、自らを神の地位にまで引き上げようとするような傲慢な態度です。たとえクリスチャンであろうとも、イスラエル人であろうとも、この暴挙を信仰によって正当化することは赦されません。
神の賜物であったこの世界
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」というイエス様の言葉は、長く誤解されてきたように思います。つまり、この世のものを、皇帝のものと神のものとに分けるような解釈がなされてきた、ということです。
しかしイエス様は、この世界のものを皇帝のものと神のものに分けることができる、などとは一言も言っていません。そもそも聖書は、この世のすべてのものは神のものである、とはっきり言っているのですから、皇帝の権力によって神の治める範囲を制限するようなことを、イエス様が言うはずがありません。
制限されるのは皇帝の方、つまり権力をもった人間の方です。皇帝に返されるのは、皇帝が作ったデナリオン銀貨だけです。皇帝が存在すること自体が否定されないとしても、皇帝が行うことを許されることは無制限ではありません。神のものを預かる者として、皇帝は神に対して責任を果たさなければなりません。
そしてそのことは、神の言葉を与る宗教的指導者たち――祭司長や律法学者、ファリサイ派たち――にこそ問われるべきものでした。誰よりもまず、神のものを神に返すことを訴え、実行しなければならない彼らが、神のものであることを忘れて皇帝の権威にすがるのでは、責任放棄に他なりません。
イエス様はこの世の権力によって苦しめられている人々の声を聞き続け、その人々と共に歩み、癒し、励まし、力を与えました。神のものが神に返され、本来の用いられ方をするならば、その恵みは多くの人々と生き物たちで分け合うことができるでしょう。
今また、人間の傲慢さが引き起こした失敗の反省を忘れた権力者たちが暴走しています。「自分のものだ」といって自然を貪り続けた結果、地球環境は人類の危機といえるほどに破壊されています。だからこそ今、神のものを神に返すこと、この世界が誰かのものではなく神様のものであり、生命を与えられた者たちが共に生きるために預けてくださった賜物であった、ということに立ち返っていくことが、今こそ必要なのではないでしょうか。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『共観福音書の社会科学的注解』ブルース・マリーナ、リチャード・ロアボー、新教出版社、2001年
『新約聖書Ⅰ マルコによる福音書 マタイによる福音書』佐藤研、岩波書店、1995年
『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン、文藝春秋、2014年
※Raimund AndreeによるPixabayからの画像

