礼拝メッセージ(2020年2月23日)

『 ヨセフの子と思われた神の子 』  ルカによる福音書 3章:23~38節  林健一 牧師

 本日はイエス様が宣教を始められたときの年齢とイエス様の系図が書かれている箇所をご一緒にお読みいたしました。イエス様から最初の人アダム。そして神に至る と延々に名前が書き連ねられています。なぜ聖書にはあえて系図が書かれているのかもっとドラマチックに書けばおもしろいのに、と思うかもしれません。しかし、聖書、福音書にはどれも意味があるのです。今日、読んだ箇所も神様が意味があって私たちに読むようにと書かれたところです。

「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。」(3・23)
 なぜイエス様は三十歳になってから救い主としての働きを始められたのでしょうか。もっと早く人々の前に姿を現してもよかったのではないでしょうか?ここではイエス様の歩みや言葉から私たちはイエス様というお方信仰の模範を学んでいきたいと思います。第一にイエス様は人として歩まれたがゆえに三十歳で救い主としての歩みを始められたということではないでしょうか。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)。まことにイエス様は人として、私たちと同じ経験をされて救い主としての歩みを始められたのです。本当に神様の不思議な御業であるとしかいいようがありません。ですから人の弱さ、脆さ、愚かさ、罪に苦しみ嘆いているわたしたちの苦しみと救いを叫び求める気持ち知っているのです。だからこそイエス様が人間に与えられる救いの御業は確かなのです。第二にイエス様はご自分の時でなく、いつも神様の時に自分を委ねていたし、神様に信頼していたということです。神様に信頼して歩むことが私たち神様に造られた被造物の最も幸いな生き方であると見本を示されました。イエス様が自分で始めようと思って始めたのでなく神様の時を待っていた姿を見るとき、私たちイエス様を信じる者たちも、それでいいのだと教えられるのです。私たちの人生は神様と共にどう歩んだかなのです。人間としてはこの世で成功し人々によくやったと認められたいと思います。しかし、イエス様によって救われて、永遠の命をいただきまったき喜びの中を生きている私たちは、自分のやりたいこと、成功することでなくイエス様のように神様の御心を求め、神様の時の中で御心をあらわす者として人生を歩んでいくことが私たちの幸せな生き方だと知らなくていけません。

「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、」(23)
 延々と続く系図、人の名前に神様は何を私たちに語ろうとしているのでしょうか?人々はイエス様をヨセフの子と思っていた。ユダヤで当時の人たちは誰の子であるのか、系図をさかのぼると誰につながるのかがとても大切なことだったのでしょうか。私たちもどこどこの家だとか、出身だとか、そういうことを誇る者です。しかし聖書、神様は私たち人間にいったいあなたは何者であるのか?と問いかけます。
 今日読んだ最後の38節にはこう結論があります。「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。」(38)新改訳では「このアダムは神の子である」と締めくくられているのです。ここに登場してくるすべての人は神の子として、神にかたどって神の形に創造された存在なのです。この系図にはいろんな人がいる。人生を送ってきた人がいる。どんな人かはよくわからない。だが確かなことはみんな神の子であるということです。神様に覚えられているということです。そして同時にアダムからすべての人が罪の性質も受け継いでいるということを語っているのです。イエス様はここに出てくる人たちの子孫としてお生まれになったのです。しかも唯一罪のないお方としてです。イエス様がヨセフの子として生れた意味は罪ある者として生れ、罪のないお方としてこのお方が新たな歩みを私たちに与えてくださるお方であることを意味するのです。