礼拝メッセージ(2020年2月16日)

『 わたしの愛する子 』  ルカによる福音書 3章:21~22節  林健一 牧師

 自分が変わることで人生のほとんどが変わっていきます。しかし、行なうことは大変なこと。聖書も私たちが自分から神様に視点を変えるだけで180度人生が変わると言っています。神様ご自身も周囲を変えるのでなくご自身を低くすることで世界を変えられました。今日読んだイエス様のバプテスマもそうでした。
イエス様のバプテスマにはどんなメッセージがあるのでしょうか?
 イエス様は神でありながら人間となられました。洗礼者ヨハネにバプテスマを受ける民衆の一人として、群れの中で静かにバプテスマを受けられました。そのようなイエス様の姿に光が当てられるのです。イエス様はここでは罪の悔い改めを必要とする、いやしなければならない一人の人間として立たれたのです。
 イザヤ書53章には、「苦難の僕の歌」と呼ばれ歌がありますが、その終わりにはこう書かれています。
「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。」(イザヤ53:12)。民衆の一人としてバプテスマを受けられるイエス様は、この時「罪人のひとりに数えられた」歩みの最初の一歩を踏み出したのです。その道は十字架の死へと続く道であります。ルカはイエス様のバプテスマにはそのような意味があるのだと言っているのです。
 ルカは、イエス様のバプテスマについて簡潔に記しながら、一方で、他の福音書にはないことを書き加えました。それはイエス様が祈っておられたということです。これから先、イエス様は大事な場面ではいつも祈りによって神様との交わりを確認されることになります。特に、ルカはそのようなイエス様の姿を印象深く書き記すのです。そして十字架の上でも祈られました。自分を中傷する人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)。これが地上でのイエス様の最期の言葉です。祈りに始まり、祈りに終わるメシアとしての歩みが、今、このバプテスマによって始まろうとしているのです。
 私たちは祈る時に、「イエス・キリストの御名によって祈ります」が、あれは単なるおまじないではありません。まさに私たちの祈りも、このイエス・キリストの祈りに支えられていることを確認し、このイエス様の祈りによりすがり、その祈りに、私たちの祈りも加えていただくようにして、イエス・キリストの名前を口にするのです。
続いてイエス様がバプテスマを受けた時に三つのことが起きたと、ルカは記します。
 一つ目は「天が開かれ」た。二つ目は、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」
 三つ目は、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえてきました。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び。喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼が国々の裁きを導き出す。」(イザヤ42:1)イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」につながる僕の歌であり、主の僕の召しを預言した詩でもあります。何も語らず、罪人のひとりとして群れの中に並び、静かにバプテスマを受けられるイエス・キリストの姿こそは、この僕の歌の成就であるのです。十字架への道を歩み始めようとするイエス様に父なる神様は「わたしの愛する子」と語られる。イエス様も父なる神様の愛をしっかりと受け止め「愛される子」としての自覚を持って私たちを愛してくださるのです。私たちはイエス様に愛されている。愛されている者だと知ってほしい。イエス様のバプテスマは父なる神様の「愛する子」であるイエス様が私たちを愛するために来られたのだとメッセージを語っているのです。