礼拝メッセージ(2021年11月28日)

『 人の命は財産によらない 』  林健一 牧師  

ルカによる福音書 12章:13節~21節(新共同訳)

12章13節:群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

12章14節:イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

12章15節:そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

12章16節:それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

12章17節:金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、

12章18節:やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、

12章19節:こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

12章20節:しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

12章21節:自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(15節)
 という言葉を直訳すると「なぜなら、彼の命は、何かが有り余るほどになることの中にあるのではない。彼の持っているものの一部でもないからだ」私たちの人生を決定づけるものは財産ではない、ということを語っています。「何かが有り余るほどあっても」、つまりそれはお金という意味での財産だけの話ではないのです。私たちが、それがあることによって人生が決定づけられると思っているものはお金だけではないでしょう。能力、才能も一種の財産です。健康や体力もそうです。美貌とかスタイルもそこに入るかもしれません。それらを有り余るほど持っていたら、人生どんなによいだろうか、と私たちは思います。

 「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20節)
 愚かな者でなく賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることなのです。それは言い換えれば、自分が持っているもの、得たものによって人生が決まるという迷信から解放されることです。私たちの人生を本当に決定づけるもの、それは、私たちのものとして蓄えられる何かではなくて、私たちに命を与え、人生を導き、そしてそれを終わらせられる神さまです。

 最後の21節に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とあります。「神の前に」と訳されているところは直訳すると「神の中へと」「神に向かって」となります。「神さまに向き合いながら生きる」。本当に必要なのは神さまとの関係における豊かさをこそ求めることです。その豊かさは、私たちの良い行いによって得られるものではありません。それは私たちが積み上げ、蓄える豊かさではなくて、神さまが、主イエス・キリストによって与えて下さる恵みの豊かさです。神の前に豊かになるとは、主イエス・キリストによって、その十字架と復活によって与えられた神さまの救いの恵みを信じ、それにあずかって生きることです。そこに、貪欲から解放された新しい生き方が生まれるのです。