礼拝メッセージ(2021年3月28日)

『 十字架上の神の子 』 マタイによる福音書 27章:45~56節  林健一 牧師

 イエス様は十字架に架られます。十字架刑がどんなに苦しいものか、聖書は説明しません。どの福音書をあっけないほどに簡素です。それは「十字架」の一言で、当時の人々はその恐ろしさを理解できたからです。そしてまた、いたずらに人間の情に訴えることをしない福音書記者の意図があります。聖書は十字架上でのイエス様が語られた言葉に目を向けるよう私たちを招くのです。

 45節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」。
この暗闇は他でもないイエス様に対する神様からの暗闇は怒りと裁きの暗闇でした。神様の御心を理解しようとしないエジプトの人と家畜のすべての初子が滅ぼされましたように、今、神様の初子である主イエス・キリストが捨てられたのです。
 46節「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
とイエス様が叫ばずにはおれなかった。この時、イエス様が体験なさった現実として神様から見捨てられるということがどんなものなのか私たちは知ることができません。
 46節「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
この一言に、イエス様の経験された霊的な暗闇の深さが凝縮されているのです。イエス様がもしこの叫びを叫ばれなかったなら。イエス様での十字架上の姿は茶番だと言っても過言ではありません。過言ではないどころか、これほどの茶番劇は他にはないということになります。形だけ罪人の身代わりをしておくけれども実際は神様に助けてもらえることが分かっているから「大丈夫だ」とこんな思いでイエス様は十字架に架かられたのではないのです。その意味で言うと、神様の救いのご計画というものは筋書き通りの台本というのではありません。

 神様の台本に「イエス、ここで大声で叫ぶ」と書いてあるわけではないのです。イエス様が私たち罪人の立場に立たれるということは、それこそ真剣勝負であり私たち人間に対する真剣な愛なのです。筋書きなどはありません。誰一人立ち入ったことのない孤独の中にイエス様は投げ捨てられたのです。