『 幸せな人生とは? 』 詩編 1 : 1 ~ 6 牧師 林 健一
慰めの訪れ
聖書教育の10~12月号では「慰めの訪れ」というテーマで詩編・イザヤ書・マタイによる福音書を読んでいきます。本日の招詞詩編121編1~2節「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」何というすばらしい信仰の告白でしょうか!この作者は周囲を見渡して他にも助けを求めるところがあったであろうに(私の推測)神様から助けが来るのだという確信を持っています。
受けるよりも奪う事に価値を置く私たち人間
詩編1編の冒頭は「いかに幸いなことか」で始まっています。この「幸い」とは、私たちの意志や努力とは関わりなく神様から一方的に与えられる福、恵みです。詩編の始まりは神様がいかに私たち人間を愛し恵みをくださる方であるかという気づきであると共に、その恵みをいただいている自分は何と!幸いな者であるか、という感動の応答でもあります。詩編全体を貫いているテーマは神様の恵みです。人間は本来神様からの恵みを受け、応答する存在として造られました。しかし、残念ですが人間は神様からの恵みに満足するということはなく自分にとって価値あるものを得る、奪うということに人生の価値を置くようになりました。そこに人が人に嫉妬し、憎み、傷つけてしまうという悲劇が生まれました。
神様がいう「幸いな者」とは
詩編において最初に「幸いな者」について書かれています。私たちにとっても人生において「幸い」になることは最も価値のあることではないでしょうか。しかし、本当に「幸い」になるということはどういうことなのでしょうか?「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(1:2) 主の律法それは主御自身です。「言は肉となって」(ヨハネ1:14)神様と共に歩む生活、神様に根差す人生を決断するということです。神様は私たちにそのことを強制なさいません。私たちの愛を求めておられる方なのです。皆さんはこれからの人生歩む道をどう選ぶのか決断が求められています。
神様の恵みを忍耐して待ち望んで
詩編1編には対照的に神様は必要としない人生を歩んでいる人たちの姿が描かれています。その特徴は「神に逆らう者」、「罪ある者」、「傲慢な者」、です。自分の能力によって生きる時に私たちの心は神様の愛から離れ、己を王とし、他者を見下すようになります。神様に従いたい私たちですが常に傍らには「神に逆らう者の道」が誘惑として存在するのです。恵みなど不必要。自分の努力と能力で歩むことができる。聖書はその心からは必ず劣等感、他者との競争、嫉妬、憎しみが生まれてくると言います。しかし、「幸いな者」はただひたすら神様からの教えを幸いとして受け取り、その恵みに応答し、その導きに従うことによって「ときが巡り来れば実を結び」「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(1:3)幸いな人生となるのです。 |