礼拝メッセージ(2018年11月18日)

『 主は彼らの救い主となられた 』イザヤ書 63章:7 ~19節  牧師 林 健一

 イザヤ63章では預言者イザヤが過去に神様がイスラエルに大いなる御業をなされ、救われたことを語りながら、神様に祈ります。神様を父と呼び、贖い主と呼びながら、イスラエルの困難な状況を話します。そして、再び神様の救いの御業を求めます。

私たちは何をおぼえて祈るのか?
イスラエルは神様への背きの罪ゆえに苦しみの中にあるのだ。自分たちは神様から捨てられたのだと思いました。イザヤはとりなしのために祈ります。現実にはイスラエルは自分たちの犯した過ちの結果として苦しみを受けています。私たちもイスラエルと同じようなことを経験するかもしれません。しかし、そうであっても私たちの父である神様を覚え、悔い改め、恵みを求めなければなりません。

私たちの地位を覚えて求める。(7~9節)
神様に恵みの回復を求めるとき、私たち自身が何者であるかを覚えなければいけません。私たちは、神の「民」であり、「子」として(8節)召されました。私たちのこの確信は、神様の計りしれない恵みから来ます。(7節)。神様は私たちの弱さを知っておられ、契約を結ばれます。ですから私たちはいつも神様を「父」と呼びつつ進み出て行かなければなりません。

恵みの働きを覚えて求める。(11~14節)
神様は私たちが自分に注がれた恵みを覚えることを望まれます。神様はイスラエルの苦難とともにおられました。海を分けて彼らの前に道を備えられ、荒野の中で養われ、谷間の家畜のようにゆっくりと休めるようにされました。イスラエルの罪と反逆にもかかわらず、神様の恵みの働きはなされました。同じようにきょう私の祈りを聞いてくださる神様をはっきりと覚え求めなければなりません。

神様を離れた者の悲惨さを覚えて求める(18~19節)
私たち自身の姿をしっかりと知り、祈らなければなりません。神様からの懲らしめは、神様の不在によって現れます。その悲惨な状態に気づき、痛み嘆きつつ、神様に求めなければなりません。神様から離れた人生の悲惨さを深く認識しつつ、神様に切に回復を叫び求める者に、主は「父」として「救い主」として現れてくださるのです。