礼拝メッセージ(2019年11月17日)

『 聖別される 』 ルカによる福音書 2章:21~24節  林健一 牧師

 本日は成長感謝礼拝です。神さまから教会私たちに託された子どもたちの成長と祝福を教会のみなで祈る時を持ちました。いま目の前にいる子どもたち一人ひとりが私たち一人ひとりに神さまから託された子どもだということを私たちは覚えていきたいと思います。子どもたちを愛することを通して私たちも神さまから愛されているのだということ神さまは私たちに教えてくださるのです。

 さて、今週からイエス様の誕生の出来事は新たな段落に入っていきます。21節「八日たって割礼の日を迎えたとき」に「イエス」と名前を付けた。それから、22節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。」という「清め」であります。「割礼」と「清め」この二つは旧約聖書において神さまがご自分の民として選ばれたイスラエルの民に定められた大切なものでした。ここでは「割礼」が何かとか、どうこう言うまえに私たちはもっと大切なことに目を向けていきたいと思います。イエス様の肉の両親であるマリアとヨセフは忠実に神さまが定められた律法に従ったということです。マタイによる福音書ではヨセフのことをこう言っています。「夫ヨセフは正しい人であったので」(マタイ1・19)、この「正しい」とは原文のギリシャ語で「ディカイオス」という言葉で、神さまの目から見て正しいという意味です。単に人間社会の倫理道徳的な正しさではありません。また律法を厳しく守るということでもありません。自分を基準とした正しさではなく神さまを基準とする正しさです。私たちは自分なりにしていると思ったとしても神さまの目から見てどうかわかりません。大事なことは律法の本質である神さまの意志に従って生きるかということです。その点でヨセフは神さまの御心が何であるかを聞き、従うことを第一とした人でした。マリアもそうでした。

 神さまを信じて生きるということにおいて大切なことは神さまが何を私たちに願っているかを毎日の生活の中で知り行なっていくことではないでしょうか。イエス様が生れた時代、すべての人が神さまの律法を忠実に守っていたわけではないでしょう。今日の聖書教育で読んだ旧約聖書マラキ書でもあるように神さまの御心ではなく自分を中心にして信仰生活をおくっているというようなことが私たちにあるかもしれません。ヨセフとマリアは自分を第一とするのではなくて謙遜に神さまに従おうとした人たちだったと思います。その姿に神さまはご自分の愛するひとり子であるイエス様を安心して託すことができたのではないでしょうか。「聖別」とは神さまのものとして分けられるという意味があります。マリアとヨセフの生き方は「聖別」された生き方であり私たち信仰者にとって倣っていくべき生き方であります。