礼拝メッセージ(2019年11月24日)

『 義の太陽が昇る 』 マラキ書 3章:13~24節  教会員I

 イスラエル民族にとって出エジプトの出来事がなににもましてイスラエルを神が守り導いてくださるよりどころの出来事でした。それ故に語り継がれて、モーセとの契約は信仰の中心に置かれていたのです。
 第二神殿の再建は成ったものの、モーセが聞かせた約束、出エジプト記19章にありますが「今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならば、あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」この言葉を思い起こしても、また神殿再建の時にも聞いたハガイによる栄光の預言「諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民の財宝をもたらし、この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。」そんな約束も起こってはこなかった。彼らの望むような祝福は見えては来なかったのです。

 このマラキの言葉は今を生きる私たちにとって、どのような教えを与えてくれるでしょうか。
 わたしは、20節にあります「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」という言葉に今日の私たちを重ねてみました。「義の太陽が昇る」とマラキ書の言葉を使い今日のテーマにしましたが、わたしは、「義の太陽は昇っている」と受け取ったのです。
 イエス様が救い主として、わたしたちの罪を一身に背負って十字架に架かられた時、19節の「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる」この言葉は成就した。と、言っていいのではないでしょうか。既にその日は来ている。マラキをして預言された、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別は起こっているのだと思うのです。そしてこの区別はイエス・キリストを通して、わたしたちの心の中に、あるいは魂の中にと言っても良いかもしれませんが、わたしたちの中に起こっているのです。わかりやすく言うなら、聖霊の働きによって起こされる、そう自分を断じる信仰の心だと言いたいのです。
 マラキの時代に生きた民たちでも今の時代に生きる私たちにでも、神の憐れみは変わらず注がれています。そして、独り子イエスをわたしたちに遣わされたそのときから、わたしたちの背きはすべて拭い去られ、わたしたちは救いに入れられた者となったのです。イエス様が十字架に架かられたことが、わたしたちと神との間に在った隔たりをなくしました。悔い改めの心をもって、わたしたちは神の民として天の国の住人に入れられたと信じることが出来たその瞬間から、あなたも、あなたも、そして私も、神の子であり、心の中に平安と希望とを手に入れることが出来るのです。