礼拝メッセージ(2019年3月24日)

『 神の国はいつ来るのですか? 』 ルカによる福音書 17章:11~21節 牧師 林健一

神の国はいつ来るのですか。
 ファリサイ派の人たちが主イエス様に「神の国はいつ来るのですか」(20節)と質問しました。当時のイスラエル、とりわけファリサイ派の人たちには神の国がいつ来るのかは切実な関心事でした。主イエス様の時代、古代は90%以上の人が貧しかったし、ましてやユダヤはローマ帝国の植民地だったからです。二重、三重の税金に人々は苦しんでいました。ですからユダヤ人たち全般は、神の国という理想郷が現実の世界に来ること、そして現実の世界が崩壊して世界全体が神の国になることを信じていました。そして現実の世界が崩壊して世界全体が神の国になることを信じていました。神の国への待望は、「終末思想」とも呼ばれます。

神の国は、見える形では来ない。
 現実の生活が苦しいほど、現実逃避をする。今の世界を新しくしてくれる、人々はメシア(ヒーロー)を求めるようになります。世界中の国々で人々が強いリーダーを求めている状況を見ればわかることです。もし私たちの心にある神の国への憧れもそのようなものであるなら主イエス様が言われる神の国に大いに失望することになります。主イエス様はファリサイ派の人たちに神の国は「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。神の国は、見える形(見張るしるし)をもって来るものではない(20節)。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ(21節)と答えられました。「間」とは、どのような意味でしょうか。

神の国はあなたがたの間にあるのだ。
 主イエス様は対立相手のファリサイ派の人たちの内側に神の国があると言い抜きました。「間」は、「手の届く範囲」という意味です。ファリサイ派の人たちは神の国をその手の中に持っているというのです。この言葉は「信じる者の心の内に神の国はある」とも理解できます。そうなら主イエス様ははっきりとあなたの心のなかに神の国はあるのだと言われたはずです。しかし、そうでなく「あなたがたの間にあるのだ」と言われました。主イエス様は、「世界の終わりに実現するユダヤ人のための理想郷」というように神の国を考えていません。日常で、私たちの手の届く範囲で既にあるものとして神の国を考えています。なぜなら神の国、神の支配による義と平和と喜びは私たちの心の内で完結されるものではないのです。自己満足による世界を造るのではありません。

すでに神の国は私たちの間ではじまっている。
 神様はどんな現実の中にもいます。目の前にある世界を投げ出すような方ではありません。ファリサイ派の人たちが抱く神の国ならば私たちはとうに神さまによって消されています。しかし、そうではなくこの世界に向き合い恵みを注いでおられます。その現実が11~19節の重い皮膚病を患っている10人の人をいやされた出来事の中に現されています。

神の国の中に入る私たち
 主イエス様の業をとおして示された神の国はどのようなものであるのでしょうか。神様に愛されている人間が、身体的にも社会的にもそのあるべき姿を失い、苦しむ現実、現場から救い出される、主イエス様の起こっている現場に、すでに神の国はやってきているのです。そしていま、この礼拝の場にも神の国は起きています。10人の中のサマリア人はいやされたことに感謝し、神様を賛美し、主イエス様の足もとにひれ伏しました。私たちにはこのサマリア人以上の神の国が与えられています。主イエス・キリストの十字架です。このサマリア人と同じように罪に「汚れている」ものとして神様から断絶された私たちです。しかし、主イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しで私たちは「きよいもの」とされました。神の国において生きるものとされたのです。