礼拝メッセージ(2019年3月31日)

『 何によって心は燃えるのか? 』 ルカによる福音書 24章:13~35節 牧師 林健一

心燃やされて
 先週の26日~28日まで北関東地方連合少年少女修養会にリーダーとして参加してきました。中2と中3の分団を担当しました。恵みいっぱいの3日間に感謝でした。閉会礼拝での最後に賛美した『あなたの示す地へ』の歌詞の中に「ちいさなわたし かわらないかみさまのやくそくがある いまあなたのしめすちへ わたしをつかわしてください」と賛美する彼らの姿に私も心燃やされました。彼らとともにおられるイエス様の姿を見たからです。

イエスだとは分からなかった。
 今日の聖書には復活したイエス様に出会ったにもかかわらず、イエス様だとはわからなかった二人の弟子が登場してきます。「ちょうどこの日」(13)イエス様が復活された日。彼らはエルサレムからエマオへ向かいます。復活より目の前で起きた十字架の出来事に心いっぱいになっていた彼らたちに復活のイエス様が近づいてこられます。しかし、二人の目は遮られていて、イエス様だとわからなかったのです(16)。

神様の恵みが見えないのです。
 復活したイエス様が目の前にいるのにイエス様だとわからない。彼らの目が遮られていてイエス様が見えなくなっている。私たちは見えているように思えても全然見えていないことがあります。カエサル(古代ローマの政治家)も「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない」と指摘しています。せっかく神様の恵みが目の前にあったとしても私たちは自分の思う、願うことでなければ、神様の恵みとして見ようとしないことがたくさんあるように思います。自分なりのメシア像を持っていた(19~21節を参照)弟子たちには復活のイエス様を見えなかった、いや、見ようとしなかったのです。

自分の望みからでなく聖書をとおしたとき見えてくるものがある。
 私たちの人生にはときどきこういう思いがでてきます。「こんなはずではなかった」。弟子たちもイエス様が捕えられて、十字架で死んだとき「こんなはずではなかった」と思ったでしょう。私たちは神様を信じているならこういうふうになる。という思い。なってほしいという願いがあります。しかし、そこに立ち続けているとき神様の恵みは見えません。イエス様はご自分のことを「聖書全体」をとおして弟子たちに教えられました。(27節参照)自分の望みでなく神様の言葉をとおしていくときに見えてくる神様の恵みがあります。

私たちは何によって心燃やされるのか? 
 私は少年少女たちによって心燃やされました。それは彼らとの間にいのちのやり取りがあったからです。弟子たちは「道で話しておられるとき、…聖書を説明してくださったとき、…心は燃えていたではないか」(32)語り合いました。復活のイエス様との出会いから心が燃やされたのです。いのちあふれるイエス様とともにいるとき私たちの心は燃やされるのです。