礼拝メッセージ(2019年3月17日)

『 なぜ、聖書に聴かないのか! 』 ルカによる福音書 16章:19~31節 牧師 林健一

 きょう取り上げたたとえ話は「金持ちとラザロのたとえ話」と呼ばれる有名なたとえ話です。たとえ話の登場人物に名前が与えられているのは、他のたとえ話にはない特徴です。このお話はルカだけに登場してくるお話です。「ラザロ」という名前はヘブライ語の「エリエゼル」から来た名前で、「神様が助けてくれる人」そういう意味の名前であります。このたとえ話には対照的な二人の人物が登場します。ひとりは金持ちで、いつも最上の着物を身にまとい、毎日ぜいたく三昧に暮らしていました。もう一人の人物は貧しい人で、体はできものだらけだったのです。やがて二人には死が訪れます。ラザロはアブラハムのふところに迎え入れられます。他方、金持ちはというと、ラザロのいる場所とははるかに隔たった陰府の世界で苦しみ悶えます。もちろん、これはたとえ話ですから、死後の世界の様子をこと細かく描くことが目的ではありません。それ以上の描写に心を奪われないように注意が肝心です。

 主イエス様はこのたとえ話を通して、何を伝えたかったのでしょうか。金持ちであることを否定して、皆がラザロのような貧しくて物乞いのような生き方をするようにと望まれたのでしょうか。そうではありません。神様との関係をいっているのです。ラザロ、その名が象徴しているように、ラザロは貧しく悲惨な境遇の中にあっても神様を助けとして生きてきた人物ということでしょう。人の目にはただ哀れな人生としか写らなかったかもしれません。しかし、神様の目には助けを叫び求めている信仰の人として写ったのです。私たちの人生が人の目にどう写るかでなく神様の目にどう写っているのか、このことが大切なのです。私たちは忘れてはなりません。神様の目が注がれているなら私たちの人生は価値ある人生なのです。

 しかし、このたとえ話から学ぶべきことは、むしろこの金持ちの犯した過ちの方にあります。ラザロは金持ちの門の前のところにいました。その門とは、ラザロが入れるように開かれている門ではなく、金持ちがラザロのところに行けるように用意された門でした。しかし、金持ちがその門を出て行くことは一度もなかったのです。その門の外側には飢えて死んでいくラザロがいましたが、金持ちが富を用いてラザロの友人となることが決して起きませんでした。友と交わったことがなかった彼は、死んでからも友のいない徹底した孤独を経験することになります。金持ちが自らラザロを切り離してつくっていた拒絶の門でした。それはある意味15章でイエス様に近よってきた罪人・取税人たちを受け入れようとしないパリサイ人や律法学者たちへの警告の言葉です。神様の御心を第一としない、隣人を愛することをしない。律法を無視した自分の正しさに生きようとする彼らへの叱責と愛の言葉でした。神様の愛のなかに生きるようにと招くイエス様の言葉をよく聴かなければなりません。イエス様が言っている「聖書に聴け」「耳を傾けよ」という意味は、神様が聖書をとおしてあなたに何を語っているのか聴け神様の御前にいるという姿勢これを取りなさいと言うことです。わたしたちの目にはこの金持ちの生き方の危うさがはっきりと見えます。しかし、ややもすると、私たちもこの金持ちの生きた道を踏んでしまう危険があるのではないでしょうか。私たちはこの世の声でなく、神様の御声を聴く者とさせられて 限りあるこの世で神様からあたえられたなすべきことをしていきたいと願います。