礼拝メッセージ(2019年3月10日)

『 罪深い者でも主イエス様は見捨てない 』 ルカによる福音書 13章:1~9節 牧師 林健一

 私たちクリスチャンは「神様に守られている」という言葉を言う事があります。神様の守りに信頼し感謝する思いはよいことです。しかし、この「神様に守られている」という思いがクリスチャンだけの特権だと勘違いをしてしまうことに注意しなければいけません。神様の愛は信じる者、信じない者関係なくすべての人に注がれています(マタイ5:45、ルカ6:36参照)。神様の愛が完全な愛であると信じないとき私たちは悔い改め、救いに対して誤った理解をしてしまいます。主イエス様は今日の聖書のなかで私たちの過ちと神様の全き愛について教えてくださいます。

 きょうの個所は、主イエス様が群衆にお語りになっている最中に、ガリラヤで起こった事件の報告がもたらされたところから始まります。その事件とは、ユダヤ総督としてローマ帝国から遣わされたピラトが、犠牲の供え物をささげようとしていたガリラヤ人を虐殺して、犠牲の供え物を汚したという事件でした。このピラトはのちに主イエス様を十字架で処刑する決定を下した人物です。

 災難や不幸が起こると、“なぜ?”とその理由を問わずにはいられないのが、私たち人間の気持でもあります。当時のユダヤ人たちも人に災難や病、不幸な出来事が起こるのは、その人が罪を犯したためである。明らかな罪がなくても、隠れた罪があったのかも知れない。その罪を神さまが裁いて罰を与えられたのだ、と考えていたのです。いわゆる因果応報の考え方です。そのように考えて理由付けをしていたのです。しかし、主イエス様はそうだとはお答えになりませんでした。

 主イエス様は「決してそうではない」(3節)と言われました。あなたがたの中にも罪はあるのだ。神様との関係において罪人である。あなたがたは悔い改める必要がある。心を新たにして神の言葉を聞き、神様に従って生きる必要があるのだ。そうでなければ、あなたがたも滅びることになる。他人の罪ではなく自分の罪に、自分自身の生き方の問題性に目を向けさせようとしました。何かがあると、“これはこの人のことだ、あの人のことだ”と他人には当てはめるけれども、自分自身には当てはめて考えようとはしない私たちの思いに気づくように注意されたのです。そして、悔い改めるには、もう遅い間に合わないということはないということを教えるために、「実らないいちじくの木のたとえ」話されました。

 俗に“桃栗3年、柿8年”などと申しますが、いちじくは実がなるまでに、何年ぐらいかかる果樹だったのでしょうか。ともかく3年間、実がならなかったのです。そこで主人は怒ってしまって、切り倒せ、と園丁に命じます。ところが、園丁の方が辛抱強い。肥やしをやって、実がなるか1年待ってみましょう、と言う。この実というのは、悔い改めのことです。人が神さまに向かって悔い改めて生きるようになる。そういう人生の実り、信仰の実りをたとえています。主イエス様は私たちに、神様の恵みという人生の肥やしを与えながら、いや、ご自分の命さえ、私たちの救いのために与えながら、私たちが悔い改めて生きることを、辛抱強く、いつまでも待っていてくださるのです。