礼拝メッセージ(2020年1月26日)
『 悔い改めにふさわしい実 』 ルカによる福音書 3章:7~9節 林健一 牧師
悔い改め
先週の月・火と牧師・主事会に参加してきました。そのなかで研修の時を持ちました。「ハラスメントが起こったときー二次被害(加害)を防ぐために」とのテーマでした。「ハラスメント」とは「相手に対する発言・行動等が、それを行う本人の意図には関係なく、相手に精神的苦痛を与え、尊厳を傷つけ、生活環境等を悪化させてしまう」これが「ハラスメント」です。大事なことは自分の発言・行動等が相手に対してどういう影響を与えているかを考える想像力であり、常に相手に対する尊敬と愛を持ち続けなければいけないということです。自分の視点から相手の視点に軸を移して物事を見ることが大切なことだと気づかされました。今日、読んだ聖書箇所では洗礼者ヨハネが洗礼を授けてもらおうとして出てきた群衆に「悔い改め」の説教をする厳しい場面です。神さまの救いを受けなさいと語ったヨハネが群衆になぜ、「悔い改め」の説教など語ったのでしょうか?ヨハネが語った「悔い改め」の言葉に注目してみたいと思います。
悔い改め-低みからの見直し―
悔い改めの言葉に私たちは何を連想するでしょうか?「もう悪いことはしません」という過ちに対しての後悔とこれからは正しい歩みをしていこうという決意を連想します。大阪・釜ヶ崎におられるカトリックの本多哲郎神父は「悔い改め」と訳されていたメタノイアという言葉を「低みに立って見直す」という言葉に訳されました。よく聖書から語られる悔い改め・メタノイアの本来の意味は「視座を移す」です。メタノイアは「メタ」(変える・移す)と「ノイア」これは本来「ヌース」心の働きを表す言葉との合成語です。今まで見ていなかったところから見るということです。苦しみや試練の出来事を通して今まで見ていなかったところから見直すことで神さまが見える。それが「悔い改め」の出来事です。
悔い改め続けよ
先ほど語った「悔い改め」の視点で洗礼者ヨハネの説教を聞いていきたいと思います。ヨハネは二つの点で群衆に悔い改めを求めます。一つ目は神さまの愛についてもう一度知りなさい、立ち返りなさいということです。ヨハネは洗礼を授けてもらおうと来た群衆に向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(7節)言います。ヨハネはもう一度神さまの愛がどのような愛であるかを知るべきだと言うのです。神さまは愛あるお方ゆえに愛する者たちが虐げられている不正義を許すことはない。ヨハネは言います。あなたがたは神さまの愛と恵みを受けた民でありながら、なぜ神さまの御心を行おうとしないのか?神さまがなぜイスラエルの民を選ばれたのか?申命記7章6~8節にモーセをとおして神さまは語られています。もう一度、あなたがたは低みに立って神さまの愛を見直していきなさい。神さまがあなたたちを選びの民として救われたのは、あなたがた自身の救いのためでもある。それは同時にあなたがたの生き方を通して神さまの愛を示すために救われたのだ。
救われた喜びと感謝を忘れずに
私たちも神さまから救われたこと、なぜ神さまの憐れみを受ける者となったのか今一度思い起こし感謝していきたいと思います。二つ目がそのことです。自分の救いだけで満足している。神さまはそれをお喜びにはなりません。自分が救われたのは特別なことだと思うのであれば神さまは私たちの傲慢さを裁かれます。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」この「実」は複数形でルカ福音書は書かれています。各々が、低み立って神さまの救いと愛を仰ぎつつ、それぞれの遣わされた所で悔い改め続けていく歩みを求めておられます。神さまに祈りつつ私たちにひとり一人に与えられた悔い改めの歩みをしてまいりましょう。