礼拝メッセージ(2020年1月19日)

『 悔い改めの洗礼 』  ルカによる福音書 3章:3~6節  林健一 牧師

憧れ?

『教場』という警察学校を舞台にした小説を皆さんはご存じでしょうか。最近テレビドラマになって放映されました。この小説の物語のなかで警察学校に入学した生徒たちに対し非常に厳しい姿勢で臨む教官とその教官の指導の下で成長していく生徒たちの姿を描いたストーリーです。『警察学校は、優秀な警察官を育てるための機関ではなく、適性のない人間をふるい落とす場である』という教官の言葉が印象に残りました。ある一人の生徒に教官は「なぜ、君は警察官になりたいのか?」と質問すると、生徒は「学生の時、雪で遭難しかけたとき助けてもらった人が警察官であり、自分もこの警察官のように人を助ける仕事をしたいと思ったから」と答えます。生徒の答えに教官は「憧れ?では警察官になれない」と一蹴します。この小説のなかで教官は生徒たちに警察官になるとは?ということの本質と厳しい現実を教えようとするのです。今日皆さんと一緒に読みましたバプテスマのヨハネの記事も同じことを語っているように思います。憧れて思うことと現実にそのなかで歩むことは天と地の差があります。キリスト者になることの本質を今日読んだ聖書から一緒に聴いていきたいと思います。

悔い改めの洗礼(バプテスマ)

 3節 そこでヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。

 「神の言葉が降った」(3・2)。神さまの言葉をいただいた預言者バプテスマのヨハネは人々に「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を「宣べ伝えた」のです。ヨハネが「宣べ伝えた」という言葉に注目したいと思います。当時、神殿で腐敗した祭司たちに反旗を翻して野に降った人たちがいました。この人たちは神殿に行って罪の贖いのいけにえを献げることができない。罪を犯しても赦しを得るために神殿に行くことができなかった。この人たちは罪の赦しを得るために汚れを洗い清める水の洗いをしました。たくさんの分派の人たちが罪を犯す度に汚れを洗い清める水の洗いをしました。しかし、これは本当に罪の赦しとはなりませんでした。反対に罪を犯す度に水の洗いをしなければいけないという恐れと律法主義を心の中に生み出していきました。バプテスマのヨハネが宣べ伝えた「洗礼」は違いました。旧約聖書の預言の中に、世の終わり、メシア(救い主)が来られて新しい救いが訪れる時、神さまが水の洗いをもって罪を清めるという預言があります。これは、終末の一回限りの洗いです。イザヤ書4章4節と、もう一箇所、有名な預言があります。エゼキエル書の36章25~27節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。」人間の手ではなく、神さまご自身が私たち一人一人に「洗礼」をしてくださる。それは一度限りの水の洗いであるとバプテスマのヨハネは神さまの救いを人々に宣言したのです。

喜びのバプテスマ  

 バプテスマのヨハネは罪のゆるしを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。「宣べ伝えた」はこの後の18節にでてくる「告げ知らせた」とギリシャ語の原文は同じ意味です。これらは「福音を宣べ伝えた」という言葉です。「喜びを告げた」と言ってもよいです。ヨハネは悲惨な荒野の現実のなかで、神の言にうなずかないあなたがたが悪いというのでなく、喜びを説きながら、悔い改めを求めたのです。かたくなな心を捨て、かたくなった首をやわらかにして、預言者の語る喜びの言葉、慰めの言葉に「うん」と頷く。喜びの言葉にこころを開く。そして神さまのもとに帰るのです。