礼拝メッセージ(2020年1月12日)

『 神の言葉が降った 』  ルカによる福音書 3章:1~2節  林健一 牧師

最後まで人として生きるとは?
 昨日、NHKスペシャル番組である方の一年間に亘るドキュメンタリーが放映されていました。その方は認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん(90)です。「痴呆」という呼称を「認知症」に変えるなど、人生を認知症医療に捧げてきた医師です。長谷川さんとその家族の姿を記録し続けてきた様子が描かれていました。医師として多くの患者さんと家族を診て、寄り添ってきた長谷川さんでした。自身が認知症になってみて病が進行していくことへの不安、家族の葛藤などありのままの姿が映し出されていました。

人は何によって人として生きることができるのでしょうか?
 人として尊敬され羨ましがられるような人であっても人として最後まで生き続けることはできないのだと、また自分の人生こう生きたいと誰もが願います。しかし、最後は家族や周囲に支えされて生きていくのが現実であることを教えられます。私たちは何かができなくなってしまったとき、人としての価値がなくなってしまうかのように考えてしまいます。しかし、それだけがすべてでしょうか?

私たちには神さまの言葉がある
 幸いにも私たちは神さまの言葉を知っています。聴いています。それがどんなにか私たちの存在を確かにし、尊厳を与えてくださることでしょうか?この世界を創造された父なる神さまが私たちの最後についてこう語ってくださいます。イザヤ46章3節後半~4節のみ言葉です。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」聖書のみ言葉は神さまを信じる者、信頼する者に与えられているものであり、神さまの約束です。私たちはこの神さまの言葉を自分に与えられた希望、約束の言葉として毎日聴いていくのでしょうか、それとも人生訓やこの世の知識、知恵として聞いていくのでしょうか。それによって私たちの人生は大きく変わっていきます。

神さまの言葉が降った
 私たちが神さまの言葉を聴いて祝福を受ける、受けないかの分岐点は私たちに語られたことを信じるか、信じられないかの分岐点です。ルカ3章からいよいよイエス様が語られ、この世界にあらわされた福音のことが語られていきます。福音がこの世界の歴史の中に現実となったことが今日一緒に聴いたこのみ言葉なのです。神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。「神の言葉が降った」。これは私たち一人一人の中にも起きている神さまの出来事です。この神さまの言葉が私の人生にどう関わってきてくださっているのか?わからないけども神さまに祈り、問う時に神さまの語られる言葉が私の人生に出来事となってあらわれてきてくださるのです。

神さまの言葉が事件となるために
 「神の言葉が降った」この「降った」という言葉は、神の言葉が出来事になった、神の言葉が事件になった、という表現であります。何か事件が起こった時に使う言葉です。神の言葉が何か新しく語られたというのでなく、この世の現実に深く関わる出来事となったのです。神の言葉が動き出したのです。その神の言葉が、まずかたくなになってしまっている、傷ついているユダヤの民のこころを動かす。その生活のこころを揺り動かす主イエスを迎え入れるために、と動き出すのです。あなたがたの生活のなかにもいまの現実の歴史、出来事を断ち切ることができるお方として主イエスが来られているのだと宣言するのです。