礼拝メッセージ(2020年5月10日)

『 権威のある言葉 』  ルカによる福音書 4章:31~37節  林健一 牧師

理屈ぬきで安心できるイエスさまの言葉
 イエスさまは故郷ナザレで伝道された後、再びカファルナウム(預言者ナホムの墓)に下って、安息日に会堂で人々に福音を伝え、教えられました。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」(32)。人々が驚いたイエスさまの権威ある言葉とはどんな言葉なのでしょうか。マルコでは「律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになったからである」(マル1:23)。当時の律法学者たちは聖書について解説を人々にしていました。生活のなかでこう律法を生かしなさいとか…。しかしイエスさまは違った。ここでの「権威」とは「自分の内からでてくる」「自分の力の中にある」という意味から生まれたものです。イエスさまの語った権威ある言葉とは自分の内から人々、私たちに向けて語られる言葉なのです。借り物でないご自身が持っている言葉は人々を驚かせ内側にずしんと重く、だけど安心できる言葉なのです。

私たちの人生は宿命なのか?

 いまの私たちには生きたイエスさまの言葉が必要です。イエスさまの権威ある言葉によって私たちは理解する以上に生かされなければなりません。イエスさまが語られる福音に人々が感動していた場面から一転、舞台は騒然とした雰囲気に変わります。会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいました。この人が具体的にどのような状態になっていたのかは語られていません。「悪霊」という言葉、これは「ダイモン」とか「ダイモニオン」という言葉です。福音書にこれからよく出てきます。この言葉は、「運命を分配する」とか「運命を分かつ」という言葉からできました。個人の力を超えた宿命の力、運命そのもの、あるいは、それを授ける神々などを表すのに使われてきた言葉です。この人は私たちの力ではどうにもすることができない宿命に支配されてしまったのだと人々は恐れていたのです。

宿命と対決するイエスさま
 どうにも抗えない力に人々は恐れます。遠ざけようとします。宿命に真っ向から対決できる人などこの世には一人もいません。だから汚れた悪霊は人々を恐れさせるのです。しかし、悪霊が恐れる存在が目の前にいます。創造主であり唯一絶対のお方である方が悪霊に取りつかれた人の前にいるのです。どうか皆さんも恐れないでいただきたい。私たちにはイエスさまがおられるのです。彼は主イエスさまに対して、「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」(34)と言っています。悪霊はイエスさまに、お前と我々は関係ない、だから我々のところに首を突っ込むな、と言っているのです。イエス・キリストと自分とは関係ない、イエスさまなどに自分の生活や問題に首をつっこまれたくない、自分は自分だけでやっていきたいのだ、そのようにこの人に思わせ、語らせているのが悪霊です。宿命のなかで生きていくしかない。そのようにして悪霊は、イエスさまの救いが、解放と自由とを与える福音が、この人に及ぶことを妨げようとしているのです。
 「イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」(35)。イエスさまは悪霊に物を言うことをお許しにはなりませんでした。イエスさまの言葉は、それまでこの人に対して何もなし得なかったうわべだけの虚しい言葉とは違いました。それまでこの人を救い出せなかったみせかけの権威でもありませんでした。まことの「救いの言葉」、まことの「権威」が、このお方と共にあったのです。このお方ご自身が神の「救いの言葉」そのものであり、まことの「権威」そのものであったのです。今この人の中には、悪魔の支配を押しのけて、神さまのご支配が実現しました。それゆえに、人々は皆それまでに出会ったことのない「権威」を目の当たりにして驚いたのです、「この言葉はいったい何だろう」(36)。それまでに聞いたことのない新しい言葉、出会ったことのない新しい権威を目の当たりにしたのです。私たちもイエスさまの救いを受けていま支配の中にいます。宿命から解放されたのです。