礼拝メッセージ(2020年5月17日)

『 一人一人に手を置いて 』  ルカによる福音書 4章:38~41節  林健一 牧師

繰り返し福音を伝え続けるイエスさま
 先週の箇所ではカファルナウの町の会堂で、土曜日安息日の集会の中で起った、悪霊に取りつかれた人を解放するイエス・キリストのみ業について学びました。今日の箇所38節から41節までは、その安息日の会堂集会を終えて弟子になるシモンの家に行ってからの出来事が記されています。第一にシモンのしゅうとめの熱病をいやすお話。第二に日が暮れてから多くの病人をいやした、あるいは悪霊を追い出したという記事。第二の出来事である40節と41節は行動の反復、継続で記されています。イエスさまが病人を癒した、悪霊を追い出しはこの土曜日一度だけの出来事でなく、そこから始まって繰り返しなされました。イエスさまは病気で苦しむ人々、悪霊に苦しめられている人々、私たち人間の必要にいまも答え続けているお方です。いまも福音の恵みをこの世界にあらわし続けてくださっています。だからこそ私たちは大胆にイエスさまに必要を求めていくことができるのです。

イエスさまに癒されるということはどういうことか
 いまもイエスさまがこの世界の中で病気に苦しんでいる人々を癒されるお方であることを私たち教会は信じて祈っていく群れでありたいと願います。イエスさまが癒されるということはどういうことなのでしょうか。シモンの家に入ると、シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいました。「高い熱に苦しんでいた」(38)これは受身形で、このあと22章63節などに出てきますが、イエスさまが捕まって兵士たちが見張りをしていた。「見張りをしている」の受身形です。しゅうとめは高い熱に捕らわれ、監視され、見張られて、もう自由にならないという、そういう状態に捕らえられている。聖書は病に苦しんでいる人をそう見ています。イエスさまが枕もとに立って「熱を叱りつけられると」(39)。私たちを苦しめるあらゆるものを私たちの主イエスは敵として戦ってくださるお方であることを知りたいと思います。その後、熱は去り、彼女は「すぐに」起き上がってイエスさまはじめ周囲の人々をもてなした。とイエスさまの癒しは、その苦しんでいる人のみを癒すのでなく周囲にいる人たちにも癒しと元気をもたらすということが彼女の癒しをとおして教えられます。イエスさまが癒すということは苦しんでいる人が本当に生きることができる、神さまの愛と平安の中に生きることができるようにしてくださるということなのです。私たちは本当の癒しを体験したいと思います。しかし、私たちは自分で生きることを求めるがゆえにこれは癒しでないと退けてしまう。この世でいう虚しい癒しを追い求めてしまうのです。私たちは虚しい癒しから解放されるよう主イエスさまに祈り求めていきましょう。

一人一人に手を置いて
 日が暮れて、人々は病気で苦しんでいる人、悪霊によって苦しめられている人がイエスさまのもとに連れて来ました。「イエスのもとに連れてきた」(40)。病人を抱えて苦しむ家族でしょうか?どうしたらよいのかわからずに共に苦しむ人々が病気の人たちをイエスさまのもとに癒していただくよう連れてきたのです。私たちはイエスさまが癒すお方だということを知っています。イエスさまは私たちが祈りと信仰をとおしてイエスさまのもとに連れて来ることを待っておられるのです。あなたも恵みを受けるためです。どうか連れてこられる立場から連れて来る人になってほしい。イエスさまの私たちに対する願い、ご命令ではないでしょうか。 それから、イエスさまは「その一人一人に手を置いて」(40)癒されました。最後に一人一人に手を置かれて癒されたイエスさまのお心について心を傾けていきましょう。「手を置く」行為は旧約では祝福をする時でした。神さまの祝福をいただく行為でした。イエスさまは病気や悪霊で苦しんでいる一人一人を神さまは愛し、祝福されていることを手を通して、その人に肌にふれることで知ってほしかったのだと思います。イエスさまの癒しが私たち一人一人のうえにそれぞれ違った形でなされるでしょう。でもただ一つイエスさまの癒しは素晴らしいということは確かなことです。祈りましょう。