礼拝メッセージ(2020年6月28日)

『 イエスが来た目的 』  ルカによる福音書 5章:27~32節 林健一 牧師

私たちを見つめている主イエスさま
 「人よ、あなたの罪は赦された」(5・20)と中風の人に宣言をされた主イエスさまは神さまと私たちとの交わりの回復のため、神さまが喜んで私たちを受け入れる福音の実現のために十字架に架かられました。その主イエスさまは私たちの信仰を見ていてくださるお方であることを学びました。主イエスさまは私たちの信仰を見ていておられます。神さまを喜び賛美するときもそうでないときも私たちの中にある信仰を見続けてくださるお方です。
イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。(5・27)
 マタイとマルコは「ご覧になって」とあります。しかしルカでは「目を留めて」とあります。主イエスさまが彼(取税人のレビ)を「じっと見た、観察した」ということです。主イエスさまがレビの何を観察していたかは聖書には書いてありません。しかし主イエスさまの心を動かし「わたしに従いなさい」(5・27)とレビの召命につながっていくのです。徴税人は当時のユダヤ人から憎しみと敵意を向けられていた職業でした。人々は敵意と憎しみを持ってレビを見ていました。けれども主イエスさまの目はそうではありませんでした。私たちも主イエスさまに目を留めていただく存在となっていきたいと願います。

主イエスさまのために
 主イエスさまの召命にレビは「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(5・28)とあります。はじめは罪人であったとしてもすべてを捨てて主イエスさまに従ったとき、その人は神さまの恵みを受け神さまの祝福を人びとに流すものとして変えられていくのです。その様子が 
そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。(5・29)
 彼は主イエスさまのために盛大な宴会を催したとあります。「イエスさまのために」これはいったい何を意味しているでしょうか?レビの生き方がまったく新しくされたということです。彼は主イエスさまのために生きることに人生の価値を見出す者となりました。教会の中心は主イエスさまを伝えることです。このことから絶対に外れてはなりません。私たちはレビのように情熱をもって主イエスさまを伝えることに思いを献げていくべきなのです。

主イエスさまの道を歩み始める
 「何もかも捨てた」ということ。これは決して今までの人生、あなたが築き上げたものを粗大ごみにして捨てるということではありません。レビが「何もかも捨てた」。それまで築いてきた、あるいは抱えてきた自分の財、自分の力をすべて、主イエスさまを罪人に紹介することのために献げましたということなのです。「イエスに従った」というのはどういうことか。それは、「罪人を招くために来た」とおっしゃる主イエスさまの道をレビは歩むことを始めたということです。捨てることを恐れるのはなぜか?私たちは捨てることばかりに目を留めてしまい神さまが私たちに与えてくださる賜物に目を留めようとしていないからです。

わたしが来たのは…
 ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、主イエスさまがレビ、徴税人と罪人たちと一緒に食事をしているのを見て「なぜ罪人たちとイエスは一緒に食事をするのか?」神さまと罪人は相容れない…
主イエスさまはこう答えられました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5・32)とこの人たちが罪人であるからということで、神さまに出会わなければ永遠に悔い改めることができないであろう。人は神さまにお会いしてはじめて神さまの義にふれ自分が罪人であることを知ることができる。主イエスさまが来たのは私たち罪人と共に交わり、その中で招いて悔い改めさせるために来られたのです。私たちのために自らを献げてくださった主を救い主として仰ぎ続けてまいりましょう。