礼拝メッセージ(2021年7月11日)
『 なぜ拒む? 』 ルカによる福音書 10章:8~16節 林健一 牧師
本日のルカによる福音書ですが、これは前回のイエスさまが72人の弟子たちを神の国の福音を宣べ伝えさせるために派遣される時のことの続きです。10節~12節の所は前回触れませんでした。そこでは、神の国の福音を宣べ伝える弟子たちを受け入れない町に対して、罰が与えられるということが言われています。しかもその罰は、「その町よりまだソドムの方が軽い罰ですむ」といわれるほどの罰があるのだと言われています。 13節でイエスさまは、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と言っておられます。「不幸だ」というと呪いの言葉のように聞こえます。しかし実はこれは呪いの言葉ではありません。日本語にすると「ああ」という嘆きの言葉のギリシャ語です。「ああ、何と悲しいことよ」という意味だそうです。つまりイエスさまはそれらの町を呪っておられるのではなく、嘆き悲しんでおられるのです。心を痛めておられるのです。 ここで使われている「悔い改める」というギリシャ語は、「心を変える」とか「考えを変える」「人生における考えの根本を変える」という意味の言葉です。しかしコラジンを初めとしたガリラヤの町は、イエスさまの奇跡を見たけれども、心を変えようとしなかった。自分が間違っていたと認めなかった。それゆえに、イエスさまは「ああ」とおっしゃって、悲しみ嘆いておられるのです。 では、イエスさまはもうこれらの町の人々をお見捨てになるのでしょうか? 「もう知らん!」といってそっぽを向かれるのでしょうか?イエスさまはこの時、エルサレムへと向かっておられます。そしてエルサレムでは、十字架が待っています。イエスさまはエルサレムで十字架に張り付けにされることとなる。そしてその十字架とは、一体何だったでしょうか。それは、私たちの罪の罰を、イエスさまが代わりに受けてくださったというものです。つまり、イエスさまを拒み、悔い改めようとしない人々をお見捨てになるのではなく、十字架へ行かれる。このイエスさまの愛。この尊い愛を知って、悔い改める者でありたいと願っております。 |