礼拝メッセージ(2023年10月29日)
『 ラザロのよみがえり 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 11章:38節~44節

38:ヨハネによる福音書/ 11章 38節
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
39:ヨハネによる福音書/ 11章 39節
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
40:ヨハネによる福音書/ 11章 40節
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

41:ヨハネによる福音書/ 11章 41節
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
42:ヨハネによる福音書/ 11章 42節
わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43:ヨハネによる福音書/ 11章 43節
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
44:ヨハネによる福音書/ 11章 44節
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

新共同訳聖書

                  

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」イエス様は、マリアがなく姿をご覧になられた。イエス様から見れば、成熟していない信仰しか持ち合わせてはいない、幼子のようなマリアが、足元にひれ伏して泣いている。イエス様はそのひれ伏す姿に、心に憤りを覚えられた。と記されています。イエス様はすぐに、「どこに葬ったのか」と仰いました。イエス様はこの時、ラザロの死という現実の前に立たれました。「主よ、来て、御覧ください」 イエス様は涙を流されました。


しかし、わたしには不思議な光景に見えるのです。この少し前、ラザロが病気だと使いの者に聞いたイエス様は、すぐにベタニアに向かわないで二日間もエルサレムに滞在しています。そして「14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 とも答えておいででした。イエス様は、ラザロが死ぬことをご存じだった。このことはイエス様からすれば神のご計画であると知っておられたのではないでしょうか。
イエス様は、彼らに石を取り除くように求められました。イエス様ご自身で石を取り除こうとしても簡単に動いたであろうに、その働きをそこにいた人間に委ねられました。あのシロアムの池で目が開いた人もそうでした。イエス様ご自身が洗うことはなさらなかった。また、ベトサダの池のほとりにうずくまっていた足の萎えた人にも、起きて歩きなさいと、自分で立つことを求めました。イエス様の言葉に信頼することは、その言葉に従って、そのとおりに実行することなのだと教えておられるのではないでしょうか。


「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」最も重要なことは、イエス様を信じることであると念を押されるのです。単に不思議な出来事が起こったというだけではない意味が、ここにはくわえられているのです。この出来事は一つのしるしであります。イエス様ご自身がよみがえりであり、「いのち」であることを証明してくださったのです。私たちの信仰は、決してご利益を求める奇跡信仰になってはいけません。ヨハネの福音書にはこれまでいくつかの奇跡が記されています。カナの婚礼の時もそうでした「水瓶を水で一杯にしなさい」サマリアの女の時もそうです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」ベトサダの泉では、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」役人の息子を癒すお話でもそうだったでしょう「帰りなさい。あなたの息子は生きる」この奇跡の場にいた人たちは、皆、イエス様の言葉を聞いて信じた人たちでした。私たちは、信仰そのものの中にイエス様の勝利のお姿を見るのです。