礼拝メッセージ(2023年10月8日)
『 自分を神にする人間 』
石井努
牧師ヨハネによる福音書 10章:22節~40節

22:ヨハネによる福音書/ 10章 22節
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。

23:ヨハネによる福音書/ 10章 23節
イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。

24:ヨハネによる福音書/ 10章 24節
すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

25:ヨハネによる福音書/ 10章 25節
イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

26:ヨハネによる福音書/ 10章 26節
しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

27:ヨハネによる福音書/ 10章 27節
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

28:ヨハネによる福音書/ 10章 28節
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

29:ヨハネによる福音書/ 10章 29節
わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

30:ヨハネによる福音書/ 10章 30節
わたしと父とは一つである。」

31:ヨハネによる福音書/ 10章 31節
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。

32:ヨハネによる福音書/ 10章 32節
すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」

33:ヨハネによる福音書/ 10章 33節
ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

34:ヨハネによる福音書/ 10章 34節
そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。

35:ヨハネによる福音書/ 10章 35節
神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。

36:ヨハネによる福音書/ 10章 36節
それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。

37:ヨハネによる福音書/ 10章 37節
もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

38:ヨハネによる福音書/ 10章 38節
しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

39:ヨハネによる福音書/ 10章 39節
そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

40:ヨハネによる福音書/ 10章 40節
イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。

新共同訳聖書

 

 神を礼拝するために、お金をユダヤの貨幣に両替したり、礼拝のための規定にそって整えられた動物を、そこで購入する必要がありました。しかし人々は、礼拝と祈りの場所を商売の道具のように使い、お金を儲ける場所にしていたのです。 その実情を目の当たりにされたイエス様は、聖書によれば「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16鳩を売る者たちに言われた。 17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。」ヨハ2:17~ と書かれています。そしてイエス様は、こう叫びました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」それなのに、ファリサイ人や律法学者たちは『強盗の巣』にしてしまった。」本来神殿は神を崇め、御心に沿った生活を送るために悔改めを携えて、神の憐れみにすがり祈りをささげる場所であったはずです。

 どうでしょうか、この状況はファリサイ派だけの問題なのでしょうか?現代に暮らすわたしたちの中にも実はよく目にする問題のように思えます。金儲けや「強盗の巣」のようなことはないかもしれません。けれど、自分に都合の良い場所にしてはいないかと、自分の信仰の物差し「教会はこうあるべきだ」だけで教会生活を見てはいないかと、考えてしまうのです。 コリントの手紙のなかでパウロは警告しています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

 イエス様を信じるわたしたちの内には聖霊が住んでくださっています。罪を犯すならば、その聖霊を悲しませることになるのです。神様に喜ばれない強盗の巣が心の内側にあるならば、宮をきよめる作業が必要になります。それは悔い改めという作業です。

 普段は穏やかなイエス様が、宮をきよめるときには一切妥協せずに、イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、行動をもって力の限り強盗の巣を取り除いていきました。このように、悔い改めは罪に対して妥協することなく取り組む必要があると、教えてくださるのです。聖霊は御言葉を通して私たちの心を貫いて、自分が犯している罪を示してくださいます。そして、私たちを悔い改めへと導いてくださるのです。

 私たちの心は部屋のようなものです。誰でも部屋を掃除しないと、どんどんゴミが溜まっていきます。毎日掃除をするならば絶えず綺麗な状態が保たれます。悔い改めも同じです。一度悔い改めたからと言って、罪のない状態が継続する訳ではありません。放っておくと、罪はどんどん心の奥から湧き出てくるのです。ですから、毎日「悔い改め」という宮をきよめる作業が必要になってくるのです。 「悔い改める生活」を身につけましょう。