礼拝メッセージ(2023年10月1日)
『 門であり、良き羊飼い 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 10章:1節~11節

1:ヨハネによる福音書/ 10章 01節
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。

2:ヨハネによる福音書/ 10章 02節
門から入る者が羊飼いである。

3:ヨハネによる福音書/ 10章 03節
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

4:ヨハネによる福音書/ 10章 04節
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

5:ヨハネによる福音書/ 10章 05節
しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

6:ヨハネによる福音書/ 10章 06節
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7:ヨハネによる福音書/ 10章 07節
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

8:ヨハネによる福音書/ 10章 08節
わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9:ヨハネによる福音書/ 10章 09節
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

10:ヨハネによる福音書/ 10章 10節
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

11:ヨハネによる福音書/ 10章 11節
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

新共同訳聖書

 

 初めに、わたしたちが知っておかなければならないことがあります。

 それは、イエス様がなぜ羊飼いの譬えを話されたのか。という根本的な問題です。当時、羊飼いとは、罪人が就く職業であったということです。羊飼いには安息日は与えられませんでしたし、火を熾してはいけないと言われていた安息日にも、一晩中火を焚いて羊の番をしなければなりませんでした。この安息日を守れない職業についている人々を当時のユダヤ人たちは罪人とみなしていたのです。その羊の門は、何匹もの羊が入れ代わり立ち代わり通るので、羊の毛はこびりついているし、身体に付着していた汚れや糞までもへばりついていたといいます。なぜイエス様は、ご自分を罪人やそのような汚い物に譬えられたのか。それは、救いということが最も身分の低い弱い者のところから始まるということ。イエス様というお方が、先日もお話しましたが、イザヤ53章の預言「この人は、主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」このように、罪を負い、この譬えのように安息日にも働かなければならなかった、罪を犯さざるをえなかった羊飼いのその中におられるということをお示しになる為であったのです。この羊飼いたちは、少なくとも罪人と見られているということを自覚していたでしょう。キリストの救いは、そのような者から始まるということを覚えておきましょう。

 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。最後にこの言葉をしっかりと味わってみたいと思います。復活の主イエス様こそが良い羊飼いであることは、1~5節において盗人、強盗との比較において示されていました。そしてさらに羊飼いの羊飼いたるわけを話されるのです。この当時も良い羊飼いは、本当に羊を狙う獣たちと命がけで戦っていたのです。この「良い羊飼い」という表現は、「真の、唯一の羊飼い」という意味を含んでいるのです。ですから、復活の主イエスこそ、その「真の、唯一の羊飼い」であると宣言するのです。

 復活の主イエス様がそのような「唯一の羊飼い」であるのは、イエス様が神の民のために御自身の命を捧げられたからでしょう。贖罪の十字架の死は、羊とされるわたしたち神の民が永遠の命を得るために神の子イエスが自らの命を捧げられた出来事です。その死によって、イエス様は「真の羊飼い」、「良い羊飼い」であることを示されたのです。そのことが、今回の羊飼いの譬えを通して、「良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる」と語られたことなのです。わたしたちは、イエス様の十字架の死によって神様の愛を知りました。また、その復活のイエス様にお会いして御国の存在も知ったのです。良き羊飼いイエス様に養われてこそ、御国の門へとたどり着くことが出来ましたし、その中に入ることも許されるのです。