礼拝メッセージ(2023年9月25日)
『 見えるようになった 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 9章:13節~17節

13:ヨハネによる福音書/ 09章 13節
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

14:ヨハネによる福音書/ 09章 14節
イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

15:ヨハネによる福音書/ 09章 15節
そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

16:ヨハネによる福音書/ 09章 16節
ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

17:ヨハネによる福音書/ 09章 17節
そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

新共同訳聖書

 

 教会学校や祈祷会において創世記を学んでいます。神様は、罪を犯したアダムもそしてエバにも皮の衣を下さいました。そして、二つの自由を付与なさっておられます。すなわち何にも左右されない自己中心を喜び生きようとする自由。もう一つは、罪ある自分でさえ守ってくださる神様の秩序のもとに帰ろうとする自由。この二つを与えてくださっているのです。そこで今日は、次の15節に記された 「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」この言葉に注目して考えたいと思います。この癒しを受けた元盲人は、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と答えています。 15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。この問いは、ファリサイ派、当時の宗教的な指導者が当然知りたかったことでもありますし、何事も原因があって結果があると小学校から大人になるまで「どうして」「なんでそうなるの」と一度は疑ってから生きるという教育を受けてきた、わたしたちの問いであるとしても不思議ではありません。「どうして見えるようになったのか」とその原因を尋ねているのです。わたしたちは、イエス様を神の子救い主として信じていますから、この奇跡も信じることが出来ます。

 イエス様は、さまざまな経験や、この世に見られる出来事を通してわたしたちに真理を告げようとなさいます。わたしたちの日常の出来事そのように身近なところの中に、奇跡の物語は生まれているのです。今回、その中心をなす言葉は「わたしが洗うと、見えるようになったのです。」というこの盲人の言葉なのです。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。という。こねた泥を塗ったイエス様が洗われたのではないのです。この盲人はイエス様の言った言葉を信じたのです。7そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。この盲人は、イエス様の言葉に従ったのです。「信仰とは、神の選びによって与えられる、神の賜物なのです。」

 そして礼拝とは、神の選びの行為であって、「わたしたちが礼拝している」と言えるものでもないのです。神の前に出ることに相応しくないわたしたちが、「神の恵みがゆえに召し出されて、今日もこの教会に集まっている。」ということなのです。しかし、誰がその召しに与かるかどうかは、間違いなく召された一人ひとりの自由に任されているのです。この目の見えなかった人は、見えない目に泥を塗られて何を思ったのでしょう。この出来事の中に、この人の魂に触れる主の暖かさが手を通して伝わったのかもしれません。「そうだ、信じていうとおりにしよう。」池に膝をついて「自分の手で目を洗ったのです」。自らの決断において主イエス・キリストの言葉に従った時、目が見えたのです。これは奇跡というよりも、だれにでも起こりうる信仰の事実なのです。主イエス・キリストに倣おうとしたとき、この盲人の目が開かれたように、わたしたちも、神の示す道が見えるようになるのです。