礼拝メッセージ(2023年11月19日)
『 なすべき礼拝 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 12章:1節~11節

1:ヨハネによる福音書/ 12章 01節
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2:ヨハネによる福音書/ 12章 02節
イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3:ヨハネによる福音書/ 12章 03節
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4:ヨハネによる福音書/ 12章 04節
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5:ヨハネによる福音書/ 12章 05節
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6:ヨハネによる福音書/ 12章 06節
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
7:ヨハネによる福音書/ 12章 07節
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
8:ヨハネによる福音書/ 12章 08節
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
9:ヨハネによる福音書/ 12章 09節
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10:ヨハネによる福音書/ 12章 10節
祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
11:ヨハネによる福音書/ 12章 11節
多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

ヨハネによる福音書 12章:1節~11節(新共同訳聖書)

      

マリアがこれだけの香油を持っていたのは、両親の遺産として相続していたのかもしれません。当時は財産を銀行に預けておくということはなく、女性であれば、香油を壺に入れて蓄えておくのが一般的だったようです。というのは、そこにはある一つの大きな目的があったからです。それは、結婚に備えるということです。どれだけ持参金があるかによって結婚が決まったのだそうです。でもマリアはその香油をイエス様に注ぎました。
それはマリアにとって、イエス様への想いがすべてであったからです。マリアにとってイエス様は結婚以上に大切な方でした。イエス様を心から信頼していた。だから喜んで犠牲を払うことができたのです。壺を割るかのように自分の人生を投げ打ったのです。自分の人生を生きた供え物として捧げました。これこそ神に喜ばれる礼拝です。


「礼拝」とはギリシャ語で「プロスクネオー」と言いますが、意味は「ひれ伏す」とか、「口づけをする」です。イエス様を、礼拝を受けるのにふさわしいお方として認め、心からの尊敬をささげることを意味しています。礼拝というと、どちらかというと祝福を受けるというイメージに取られることもありますが、礼拝とはささげることです。イエス様を讃え、感謝と信頼を捧げること、それが礼拝です。。レプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめも、神殿におられる神を心から信頼していました。だから、自分のすべてをささげることができたのです。それは金額の問題ではありません。心の問題です。どれだけささげるのかということではなく、どのような心でささげるのかです。イエス様は犠牲を払っても尊敬を受けるに値する方です。なぜなら、イエス様は私たちを罪から救ってくださるために、ご自分のいのちを投げ打ってくださったからです。  


マリアにとってイエス様は最高に信頼できるお方でした。だから自分のもっていた最高のものをささげることができたのです。マリアは石膏の壺を割るように、自分自身という壺を割ったのです。自分自身を主にささげたのです。いったい彼女はどうしてそのようなことができたのでしょうか。それは彼女がイエス様という方がどのような方であるのかをよく知っていたからです。イエス様を知れば知るほど豊かな礼拝をささげることができるようになります。そのためにはイエス様の足もとに行かなければなりません。イエス様の足もとに行って、イエス様のみことばに聞き入る必要があるのです。あなたがどのように礼拝をささげておられるかを見れば、あなたの価値観がわかります。どれほどイエス様を愛しておられるかがわかるのです。もしイエス様を礼拝することがただの義務感でしかないとしたら、もし重荷になっているとしたら、その人はほんとうの意味でイエスのことを知らないということになります。だから、イエス様の足もとに行って、イエス様のことばを聞きましょう。そして、イエス様がどれほど価値ある方なのかを知り、心からイエス様を礼拝する者となりましょう。